『憲法9条』のノーベル平和賞への推薦とその有効性の考察:日本国内における憲法9条を巡る価値観の対立

『憲法9条』をノーベル平和賞に推薦することは、日本国が政策的・侵略的な戦争(武力による威嚇)を遂行しないと決めた最高法規を持つ立憲主義の国であることを世界に改めて示す効果はあるが、仮にノーベル平和賞を受賞したとしても『日本以外の国』に憲法9条のような平和条項を導入させる働きかけをしなければ、国際平和への貢献にはつながりにくいだろう。

ノーベル平和賞:「憲法9条」が候補に 受賞者は日本国民

憲法9条に対する誤解として、9条の平和主義(戦争放棄)は無抵抗主義で平和ボケだという誤解があり、外国から攻撃されたり侵略されたりしても無抵抗でやられるだけなのかという反論があるが、憲法9条の規定があっても自然権に由来する『個別的自衛権』までは放棄できない。

9条があっても、日本側の交渉・対話・検証の求めをあくまで拒絶する一方的な外国の攻撃・侵略・テロを排除するための自衛目的に限定された反撃は当然に許される。日本の領土を直撃しない北朝鮮の国威発揚のミサイル発射実験に対して、現状でも破壊措置命令は出されているが、9条の規定によって日本の側から『戦争・武力(軍拡・核武装)・集団安保』を盾にした要求・交渉・威嚇はしてはならないという国家権力の歯止めが効かされている。

戦後日本の平和と安全は『憲法9条』によってもたらされたものではなく、平和主義と戦争放棄、軍隊の不保持のお題目を唱えているだけでは平和・主権は維持できないという意見もある。

だが、壊滅的な日米戦争の敗戦から学んだことの一つとして、『軍国主義・天皇崇拝(忠義心)・集団主義・ナショナリズムをお題目とする憲法規範・道徳教育』が、日本人の大多数を“自分のため”ではなく“天皇・国・みんなのため”に戦争をしなければならないという価値観に染めていき、戦線の拡大を抑制したり個人の生命を大切にする意識の持ち方が『お題目の刷り込み(周囲の同調圧力)』で封じ込められたという流れがある。

国是・憲法・権力作用(国民教育指針)としてのお題目の繰り返しの刷り込みは、人間の精神状態や行動理念、価値判断を大きく左右する力を持つことは、中国や北朝鮮、イランのような独裁国家において特に顕著だが、日本やアメリカ、EU諸国のような先進国とされる国々の『自由民主主義・人権思想(個人の尊厳)・侵略支配の否定』などの価値観にしてもお題目を唱える憲法・教育・メディアや国民の大多数の信念(みんなが支持している考え方)によって支えられている。

お題目のラベルや方向性が変わっても、人間の精神や判断に全く変化が生じないと信じることのほうが空理空論であり、国是・憲法・教育・メディア・権力作用が『平和志向(対話路線のハト派)なのか軍事志向(強硬路線のタカ派)なのか』は必ず国民の意識や価値観、攻撃性(対話性)にかなり大きな影響を与えることになる。

憲法9条を改正しても教育内容・報道姿勢を国家主義的な方向に変えても、平和主義を尊重して戦争に反対する日本国民の価値観そのものは決して変わらない(平和を尊重しないのは常に諸外国・異民族のほうなのだ)という考え方は現実的なものではない。

北朝鮮のプロパガンダの国営放送を、先進国の私たちは馬鹿げたものとしてお笑いのようにワイドショーで流しているが、『国営放送・国家公認の情報』ばかりを毎日シャワーのように浴びてお題目のように唱えていれば、その価値観や世界認識がいつの間にか自分のもののように思えてくるものでもある。

恫喝外交を繰り返す北朝鮮だって建前としては、『平和を尊重しないのは常にアメリカや日本のほうなのだ』という情報を流しており、国民のかなりの部分は北朝鮮のほうがアメリカ主導の国際社会から不当に虐待・弾圧されている(北朝鮮の軍事力・核武装は自衛のためにやっている)と思い込んでいるのである。

国家公認のお題目や教育・世論の風向きが変われば、戦後を通して普遍的なものとされてきた日本人や日本政府の『平和尊重・対話路線』も緩やかに変質していく可能性があるし、日本の経済成長が停滞して日本人が相対的に貧しくなっていること(若年層の仕事・生活の満足度や将来期待に陰りがあること)も外部に敵を求める好戦性を高めるリスク要因となる。

日本の経済力が磐石で国民の大多数が仕事・生活・将来予測に満足しているのであれば、憲法9条改正や国家観・歴史観の変化はそれほど大きなリスク要因にはならないが、現状はそれとは反対のベクトルであり日常生活や国の未来に不満・不安を覚える層が増えている。

経済が斜陽してきたEU諸国で『移民排斥・EU離脱の若者の右傾化(ナショナル化)の動き』がでているように、先進国家が衰退基調にある時こそ軍事・外国人嫌悪の兆しに警戒が必要で、現状を『暴力・集団力学(=自分たちを苦しめていると思う仮想敵の撃退)』で好転させようとする過激な言論や価値観に魅了される人も増えてくる。

憲法9条を日本だけが所持していてもしょうがない、日本人が軍事的台頭・恫喝を懸念している中国や北朝鮮、民族感情の対立のある韓国、それ以外の世界の国々にも憲法9条のような平和主義・戦争放棄の国権の縛りを導入させなければ、日本だけが軍事的に威圧されて国益が損なわれるという見方もあるが、平和主義は領土をはじめとする国家主権の侵害に対しての抵抗・反撃ができないというものではない。

憲法9条がノーベル平和賞を受賞したら9条改正のハードルになるという批判もあるが、仮に受賞すれば憲法9条の知名度や理想主義を政略的に利用する強気の倫理的外交姿勢に転じるというのも一つの選択だろう。憲法9条が示唆するのは、『平和を尊重しないのは常に憲法9条のような戦争否定の国権の縛りや国家の理念を持たない外国のほうだ』という倫理的正当性であるが、現状では国際政治や首脳外交の舞台で直接的に憲法9条の議論を持ち出すことは難しい。

だが、憲法9条がノーベル平和賞を受賞することになれば、日本の首相が『なぜ諸外国はノーベル平和賞を受賞したわが国の憲法9条のような規定を持たないのか・国際協調や国際平和、人道的配慮(人権保護)に反する各国レベルの自国の利益のみを考慮した戦争や軍隊の発動に対する抑止力となる普遍的意義のある憲法規定の導入をまずは常任理事国から検討してはどうか』という倫理的正当性のプレッシャーをかけることができる。

欧米先進諸国の国民であればこういった理論的・倫理的な正当性(理屈の上で否定できない正論とそれへの反論の応酬)にまつわる“ための議論”が結構好きなので、ある程度の話題性を攫うことはできるかもしれない。それでも本当に戦争や紛争、人権侵害が深刻な国・地域・民族が、憲法9条のような平和主義・戦争放棄の国家理念を採用する可能性は小さい。

こういった公権力の本質である人に対する支配性や暴力性を原理的に封じるような憲法規範は、『個人の尊厳が保証された民主的・自由主義的な体制』かつ『分厚い中流階層や教養階層に支えられた一定以上の豊かさ・賢さの広がり』がないと採用される余地がない。

なぜなら、中流経済階層(啓蒙的な教養階層)が形成されていない国・地域・部族において、特権的な権力者や支配階層が自分で自分の権力作用(庶民層を強制的に支配・徴発・使役できる権力作用)を押さえ込むような憲法を取り入れる動機付けやメリットがそもそもないからであり、それ以前の問題として『個人と集団との分離の意識』自体が成り立っておらず、『個人が集団・部族のために戦って死ぬことが義務・栄誉だとする原初的価値観(戦争と勇敢さ・自己犠牲の徳)』がおよそ自明的なものとして通用しているからである。

日本国憲法や憲法9条は確かに先進的で理想的な内容を持っており、『1945年時点の日本』から相当に進んだ『2014年の現代の日本』に生きる国民の価値観・倫理観・人権感覚よりも先進的かつ啓蒙的なのだが、それは日本国憲法が『国家の命令と個人の権利の分離』を徹底しているからで、9条の戦争放棄というものもその本質は『国家権力といえども個人の意志・権利に反して戦争参加(従軍・戦争協力)を強制できない』という過去に当たり前とされていた公権力の有効性(国民を合法的に兵力や労働力としてその意志に反して強制的にでも使役できる有効性)を大きく制限してしまったところにある。

第二次世界大戦以前には、言葉を悪くすれば国民というのは国家・権力(日本では天皇陛下)の所有物のようなものであり、国家・権力の枠組みから離れた『個人としての私の生命・感情・欲求』などは二の次にされて軽視され、自分のためではなく国家(体制・元首)のために身を粉にして働いたり戦ったりするという生まれながらの運命(運命共同体と直結した人生)の下に置かれていた。

NHKの籾井会長ではないが『国家権力(民族共同体の支配者・権威者)が右というものを左とはいえないという感覚』が当たり前の時代だったのだが、実はこういった反自由主義的・反個人主義的な価値観のほうが世界の一部の国々では主流なのである。

“全体主義的な教育・伝統”あるいは“自分と共同体との一体化感覚の自明性”、“武装勢力・権力層からの直接的な恫喝・脅し”などによって、自発的に服従したり強制的に服従させられたりすることで、『運命共同体の戦争行動』に協力しなければならない確固たる社会構造が作られてしまっているため、こういった国や地域、民族に個人の尊厳原理を徹底した日本国憲法や憲法9条のような集団規範を定着させることは現状ではあらゆる条件から不可能に近いと見なければならない。

また、いったんは経済社会の豊かさの拡大と中流階層としての自己満足によって、国家と個人が分離された『自由主義(個人主義)・消費文明の時代』を謳歌して歓迎してきた先進国の人たちが、『雇用の不安定化・失業の増加と所得の減少・個人主義の過剰による孤独化・グローバリズムによる移民増加・人生の目標の喪失感』などに直面し苦悩するようになり、バックラッシュのように再び『国家・民族に帰属して貢献する自分+味方と団結して外敵・外国人の脅威と戦う自己イメージ』にプライドや生き甲斐を見出す右傾化のような動きも起こっている。

憲法9条の平和主義は『個人の尊厳原理(国家から個人の思想・行動・自由が全面的に支配されないという原理)』を前提とした場合の理想であるが、必ずしも時代・歴史が進歩主義的に前進するものではないこと(現状・感情によって過去の自意識に戻ろうとすることもあること)の兆候が見える現時点では、『国家から戦争・労働をある程度まで強制されても帰属感・プライドのない現状よりもマシだ(どうせ自由であってもグローバリズムや市場経済・超国籍資本は自分たちに豊かさも栄誉も与えてはくれないだろう)』という信念が9条的な価値観を否定する動機づけになり得るのである。