重無期刑(終身刑)の導入と死刑制度の存廃の議論

近代社会の原則である自由主義と人権思想は、何人たりとも他者の生命や自由を奪ってはならないという『他者危害原則』と最低限の規範・常識を共有する『学校教育制度+公共圏の意識』を前提として機能している。

しかし、“多様な遺伝子・環境(境遇)・気質性格・人間関係・動機づけ”を持つ人間は、その多様性と不完全さゆえに他者の権利(自由)を犯してしまうことがある。

「終身刑」創設の意義と懸念点

人間社会では有史以来、戦争や犯罪、支配制度(階級制度)を含めた『他者を殺害したり危害を加えたり従属させたりする人権侵害の事態』が途切れたことがない。

近代以前の時代には『食糧・土地・資源の絶対量の不足』によって他者を殺したり他者から奪ったりして人や集団が生き延びようとしてきたし、現代にまで至る近代以後の時代にも『個人的な怨恨・不遇・貧困・欲望・衝動を抱えた人たち+既存社会に適応できない人たち(利己的な欲求を非合法的手段で満たそうとする・思い通りにならない現実に対して責任転嫁をしたりやけくそになるなど)』が他者の権利(生存権)や自由を侵害してしまうことがある。

生命・身体・財産にまつわる基本的人権は“不可侵”であるというのが近代思想の啓蒙する内容であるが、現実社会は『基本的人権の不可侵性を尊重し遵守する個人』だけで構成されているわけではないので、『殺人・暴行・強奪・監禁・強姦などによる弱肉強食のメリット(見つからなければ犯罪をしたほうが自分のメリットや満足になるのではないか)』に流される犯罪者が生み出される。

近代的な文明社会に生まれて教育(人間関係からの学び・気づき)を受けながら成長した個人の9割以上は、近代思想の基本的人権の不可侵性を内面化して、『自分が傷つけられたくないのだから他人も傷つけてはならない』という理性的かつ倫理的な人権の持つ規範性を前提化していくので、重大犯罪とは無縁の人生を送ることになる。

大多数の人たちは、『死刑になるのが怖いから殺人をしない(最悪でも無期懲役にしかならないのであれば殺人をしようかどうか迷う)』のではなく『生理的・感覚的・倫理的に殺人などしたくないから殺人をしないかはじめから殺人という選択肢が自分の人生に含まれていない(殺人が無罪放免される確約があっても大多数の人は人を殺したいとは思わない)』のであり、死刑の持つ殺人をはじめとする重大犯罪の抑止効果は元々かなり限定的なものである。

無論、同じ『殺人』という行為であっても、その殺人に至るまでの動機づけや被害者との人間関係の経緯などによって、『死刑にしても飽き足らないほどに否定され憎まれる利己的な加害者(無関係な被害者や子供・女性などを通り魔的に惨殺するなど)』と『被害者にも十分な落ち度や悪意(先行する加害)があったという認識から情状酌量の嘆願書が出るような同情される加害者(長年にわたる虐待や暴力、いじめに耐え切れなくなり衝動的に自衛の意図もあって相手を殺害したなど)』とに分かれたりもするので、『やむを得ない状況下(関係性)での殺人罪の減刑・赦免の欲求』というのも人間は同時に持っている。

近代社会は十分に教育されて啓蒙された理性的で倫理的な個人、日常生活に困窮しないだけの能力と仕事、収入(資産)を持っている自立的な個人(自立できなくても公的扶助で救済された個人)によって構成されるべきで、いずれはその目標に到達し得るというある種の理想論に『近代啓蒙思想・人権思想』は立脚している。

人権思想に対する批判として良く言われることに、『加害者の人権』は守るが『被害者の人権』は守らないのかということがあるが、人権思想の国家レベルの強制力は『国家権力が個人の人権を侵害しないというマクロな立憲主義』が基本であり、『個人レベルのミクロな紛争・怨恨・自暴自棄・悪意(欲望)の制御』までは当然実現できない。

身体を持った具体的な個人は膨大な数が存在している、その行動の制御(意思決定)は本人に任されているので、すべての人間の人権侵害の意思決定や行動を事前に監視して完璧に防ぎきることは現実的に不可能だからである。『個人間の人権侵害』を防ぐには、加害者の人権意識の向上と社会適応・他者配慮がどうしても必要になるが、いくら人権尊重の啓蒙教育や価値観の普及に尽力しても『そこから逸脱する個人(現実や境遇に堪えがたい不満・怒り・鬱憤を感じて他人に危害を加えてしまう人)』は必ず出てくるから犯罪や問題行動には終わりがない。

加害者を死刑にして殺してしまうというのも、厳密には『被害者の人権の保護』とは無関係な処罰であり、『被害者の遺族の感情的・因果的な納得感』と『反省・更生が見込めない凶悪犯罪者の決定的な再犯抑止』といった意味合いになる。

被害者の人権というか生命・安全が守られるには、『加害行為をしようと思う自分を事前に制御できる理性的・倫理的な個人(近代社会の人権原理に同意してコミットするメンバー)』が増えるしかない。

そして、被害者の人権が殺人によって決定的に奪われた場合にどのような罰則を与えるのかについて、『死刑(応報刑・更生をそもそも望まない・100%の再犯防止)』と『絶対的隔離(終身刑・更生の可能性を否定・100%に近い再犯抑止)』と『相対的隔離(教育刑=出所可能性がある懲役・更生の可能性を肯定・贖罪や改心の度合いを専門的見地から観察して慎重に判定)』の意見の違いが生まれている。

近代啓蒙思想の人権尊重が立脚する上記の理想状態(理性的・倫理的・自立的な個人に向かってみんなが成長していく)が実現した時には、近代社会から他人を殺したり他人から奪ったりしてまで自らの欲求・不満を満たそうとする啓蒙できない野蛮な個人(犯罪)は消滅することになるはずだが、『死刑制度廃止』というのは国家が垂範して何人たりとも他者を殺す権限を持たないことを示した『理想状態を先回りした制度改正』の側面もある。

『死刑制度廃止+人権思想』の文脈では、もし殺人や強盗殺人などの重犯罪を利己的に犯してしまう野蛮な個人が文明社会に出現したとするなら、それは『近代社会の家庭・学校・社会の教育機能(他者を思いやるヒューマニズムを育む人間関係)の失敗や欠陥』に基づくものであり、そのすべての責任を本人の人間性や自由意思(間違った行動選択)のみに原因帰属させることはできないというロジックになる。

啓蒙主義(自由で平等な人間性の啓発)と産業発達(経済的な豊かさと貧困の縮小)が切り開いた近代社会とは、国家と家族(親)と学校と地域、友人知人が『人権を侵害することのない理性的・倫理的かつ社会適応的な個人』を生み育てていく社会であり、共に人格や共感、常識を切磋琢磨して作り上げていく社会(広義の互助を担う仲間でもある他者を殺せない個人へと成長させていく社会)でもある。

だから、『人権思想からの著しい逸脱者』が出現したというのは、近代社会の教育機能・親子関係・人間関係・経済制度の失敗(自己責任もあるが周囲の関係者や広義の社会設計の問題も考え得る)としての側面もあるというわけである。

死刑制度の問題点は『冤罪のリスク』と『人権停止の国家権力(集合意思)の特権性』にあるが、いかなる理由があっても他者を殺してはならないという人権の不可侵性に対して、国家は『戦争』と『死刑』という二つの特権的な例外を持ち込む強制力を有する。

『戦争』と『死刑』は、個人が抵抗することができない集合的権力を有していたり、司法権力が十分にその人物を殺しても良いと判断できるだけの理由があれば、例外的に人権を停止して自由を奪ったり殺したりすることを合法化(正当化)できるという特性を持っているが、死刑制度の問題として『十分な理由があれば殺人(報復)もやむを得ない』という本能的な復讐感情の肯定(対人・社会トラブルにおける暴力・懲罰的殺害の有効性)をそれとなく示唆してしまう部分にもある。

死刑制度を廃止しても、犯罪統計では殺人の発生件数は上昇しないが(死刑が怖いから殺人をギリギリのラインで思いとどまっているという人の数が元々圧倒的に少ないため)、『殺人の被害を受けた関係者の復讐感情の充足手段(国家権力による代理的報復の選択肢)』は奪われてしまう、このことをどう制度的あるいは心情的に判断すべきかだが、『応報刑の正義(人を殺せば自らの生命で償う他なし)』が浸透した日本では当分は『死刑制度存置』のほうが多数派になる。

『終身刑』は加害者の人権を停止させずに大幅に制限する刑罰であり、国家といえども人間を殺すことは許されないの原則を守ることにもつながるが、終身刑に対する反論として『服役囚の長期収監の財政的コスト+服役囚の高齢化による医療・介護の費用の増加』を指摘する声もあり、『終身刑における生活水準(一日辺りの生活費)・刑務所内での自活能力の向上・市場競争力を持つ服役囚のスキルアップや生産活動の促進・服役者同士での相互的な介護』についても議論と節約が必要だろう。