オランダ・ハーグの国際司法裁判所(ICJ)が、日本の調査捕鯨に中止命令。

国際司法裁判所は一審制であるため、異なる争点から対抗的な訴訟を提起しない限りは、上訴はできずにその判決に従うしかない。日本の捕鯨は、政府の助成金を抜きにした利益はでていないため、『商業利益を得るための捕鯨』というよりは『科学的調査を兼ねた食の伝統文化を保存するための捕鯨』に近い。

国際捕鯨委員会は1986年に商業捕鯨を禁止したが、禁止の理由は『鯨の頭数減少・絶滅危機と種の保存』であった。日本は鯨が絶滅危機にまで至っておらず、一部の鯨の種の頭数が増加傾向にあることを、統計的・合理的な推測から立証するために、『科学的研究を目的とする調査捕鯨』を法律の抜け穴として1987年に開始したが、当初は調査捕鯨で捕られた鯨が廃棄されずに販売されるのは(無意味な殺処分や海洋資源の無駄遣いを回避する意味でも)暗黙の了解でもあった。

南極海の調査捕鯨、中止命令 捕獲数「多すぎる」

ここまで国際社会で反捕鯨の価値観や政治行動が強まっている状況では、年間に1000頭以上を捕獲することを了承させる『調査捕鯨』の持続は現実的に困難であるが、日本国内における鯨肉消費量の低下を考えれば『数百頭の捕獲頭数の制限枠』でも鯨肉が好きな人の需要はそれなりに満たせるのではないかと思う。

いずれにしても、『完全な商業捕鯨の承認』の可能性は有り得ないのだから、捕鯨が容認されるとしても『捕獲頭数の制限つきの捕鯨』になるわけで、日本は反捕鯨国との間で『科学的根拠に基づく捕獲頭数の制限枠(1000頭を超える現状の維持は困難であり調査目的にしては数が多いという批判にも一定の妥当性はある)』についてすり合わせて交渉するしかないだろう。

日本の調査捕鯨は『国際法の条文』からすれば違法であるが、日本が捕鯨を持続するために取れる国際法変更の措置は、『調査捕鯨によって得られたデータから鯨の一部の種が絶滅危機にはないと科学的に推測されるのであれば、商業捕鯨の再開をしても良いのか』という科学的根拠(エビデンス)に基づく反論をオーストラリアを筆頭とする反捕鯨国にぶつけてみることである。

つまり、捕獲制限を設けた捕鯨を再開しても良いと判断できる(鯨が種としての絶滅危機を離脱したと判断できる)オーストラリア側の科学的根拠のある条件となる数値はどこにあるのかを、オーストラリアの担当官自身の口から語らせることができれば、調査捕鯨の実質的な目標も定まることになる。

どれだけ増えても鯨を捕獲してはならないという意味ではないのですよね、あなた方が納得できる鯨の持続可能な棲息頭数の基準はどこにあるのですか、鯨とそれ以外の動物の生命の価値に差異を設けているわけではないですねと念押しをする議論にリソースを割くことで、『反捕鯨国にしか通用しない差別的な動物愛護精神の矛盾』を突くことが可能になるが、この分野の議論は『科学的~』を連呼する割には感情的なものになりやすい。

商業捕鯨禁止の法的根拠は『鯨の頭数減少・絶滅危機』であるが、オーストラリアは商業捕鯨禁止を『このままでは鯨が絶滅してしまうから』という科学的理由ではなく、『鯨は頭が良くて可愛い野生動物だから・鯨の生命には他の家畜とは異なる特別な価値があるから』というヒューマニスティックな主観的理由に置き換えている疑念がある。

捕鯨の法的禁止は必ずしも科学的根拠のみに基づいているとは言えないからこそ、日本は調査捕鯨を続けて『鯨が絶滅危機にまでは至っていないことの統計的根拠』を得ようとしているのだが、『反捕鯨国が捕鯨を再開しても良いとする基準』がいまいち不明なままであり、このままでは幾ら調査捕鯨を続けても『法律の網を潜る後ろめたさ』が残ってしまう。

日本は鯨を食用・資源利用とするのであれば、『捕鯨を再開しても良いハードル(種の絶滅リスクを抜け出たと推測できる状態)』について、反捕鯨国と科学的根拠や具体的な頭数予測の数値に基づいてすり合わせをすべきだが、反捕鯨国はその土俵には決して乗ってこず、自らの正当性として『野生動物は保護すべきもので殺戮してはいけない』という固定された教条の外には出てこない。

国際法による捕鯨禁止は、『鯨を捕獲してはいけないあるいは食べてはいけないという主観的・文化的な価値観』に基づくものであれば、法としての強制的な規範性の正当性に疑義が生じるのではないかと思うが、国際社会では鯨・イルカの愛護精神を持つ国や国民のほうが数的に優位であり、捕鯨国の言い分は頭から切り捨てられやすいのは如何ともしがたい。

オーストラリアやニュージーランドなどが『鯨は倫理的には人間が捕獲しても良いのだが、今は乱獲で頭数が減っていて絶滅危機の状態にあるので、生態系保護・種の保存の観点から暫時的に捕獲してはいけない』ということに同意しているのか否かというところから始めるしか、堂々と行える捕鯨再開の道は開けないわけだが、現在の国際社会の多数決では『鯨=棲息頭数に関係なく保護されるべき知能の高い野生動物』という認識のほうが優位である。

さらに言えば、そこまでして牛肉・豚肉よりも美味しいわけではない鯨を無理に捕らなくても良いではないか(特に欧米的なパン食文化圏では鯨肉と組み合わせる料理や食べ方が極めて少ない)というのが、国際社会の平均的な意見であり、日本の米食文化・資源利用との相性が良かった鯨食文化・捕鯨技術というのは『前近代的・非人道的な野蛮な狩猟文化(野生動物の食用)の遺制』といった感じに受け取られやすい。まぁ、それを言えば、欧米の遊戯的・競争的なハンティングの狩猟文化のほうが野蛮・未開(生命の無駄な消費)であるという感じもするのだが、ハンティングは欧米の男性ジェンダー・銃文化・自然開拓と絡んだ『文明的行為』という別枠の位置づけになってしまうようだ。

一部の環境保護団体や捕鯨反対主義者は、科学的根拠や棲息頭数の推測とは無関係に、『どんなに頭数が増えたとしても、絶対に鯨・イルカを捕獲したり食用にしてはいけない(鯨・イルカは他の家畜などの動物とは異なる特別な生命・知性の価値を持っている)』という捕鯨=野蛮で残酷な非人間的な行為という原理主義に陥っている可能性が高いが、捕鯨問題というのは国際的には大半の非当事者国がそこまで関心がない問題でもあり(別に自国では鯨を食べないし鯨を神聖視もしていないので)、ラディカルな信念・価値観を持つ国・者同士のぶつかり合いになりやすい。