ムスリム(イスラム教徒)はなぜ豚肉を食べてはいけないのか?:生活規範・帰依の乏しい日本の宗教文化

ムスリムがなぜ豚肉を食べてはいけないのかに『合理的な理由』はない。ムハンマドが天使ジブリールから聞いた神の言葉に『神が豚肉を食べてはならない』という規範があるから守るというだけである。

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イスラームの文化・生活規範の強度というのは、日本人の宗教感覚で最も分かりにくいものの一つであり、日本人は反射的に宗教の聖典にあるような物語を『人間が作った話』という風に解釈するので心から信じることができないというのがある。イスラームが意味する『帰依』も殆どの日本人には感覚的に分からない信仰心である。

日本は世界でも有数の『帰依しないという意味での無神論者の国』であり、日本人の多くは『科学的世界観あるいは人間中心主義から離れない人々』である。帰依というのは神中心の世界観に我が身を委ねる、神が本当に存在するものとしてその言葉・命令を至上のものとする生活を受け容れるという事だが、日本人は一般に『帰依』まではしない。

確かに日本人も神社に初詣をしてお賽銭を投げるし、寺院で法要を営み墓を立て説法を聞いたりするのだけれど、神様仏様を中心とした世界観に帰依し戒律を守るという信仰のあり方ではない。寺社にお参りして『お願い事をどうか聞いてください・助けてください』と神仏に頼むが、神仏側が人間に命令する事はまず意識されない。

日本人は宗教によって生活や意識を細々と規制・束縛されることを基本的に好まないので、イスラームの生活慣習を規制する帰依の信仰から遠い。仏教にしてもインド・中国・朝鮮・タイの僧侶は現在も戒律(煩悩の生活レベルの規制)があり守るが、日本仏教は戒壇院は早く形骸化し鎌倉期頃からの僧侶の肉食妻帯も異論は少ない。

イスラームの帰依型の信仰形態は『六信五行』に集約されるが、平均的な日本人にとっての信仰は依頼型・自然型であり『祈りたい時に祈る・困った時に頼む・寺社の訪問時だけ拝む』である。儒教が身分制の統治の方便にされたこともあったが、日本の『儒仏神』は文化・生活規範の側面は極めて希薄で、神仏の命令の観念もない。

『豚肉を食べてはいけない』というイスラームの生活規範は、帰依しない意味での無神論者の日本人にとっては『食べてみて毒がなく美味しい+暫くして神の罰も当たらない』なら、その後は食べてもいい(肉食妻帯の解禁と同じく不便な戒律は無くしていく)となる。原理主義の聖書・コーランの認識を理解する帰依の土台がない。

近代化は『合理的根拠のない迷信・帰依の排除』の性質を持ち、アメリカには福音派の原理主義者(聖書をそのまま神の言葉とする根本主義)も多いが、欧米のキリスト教は合理的根拠なしで人間を処罰してはならないという程度には世俗化されている。世俗化とは、人の都合や理屈・権利が優先される『人間中心主義化』を指す。

厳しい自然環境と戦乱の歴史が生んだ一神教は、原点において『家父長制+共同体主義の結束・秩序』を支える共同幻想の教えだから、不合理(人権侵害)であっても既存の共同体の秩序や結束を維持するための『神の絶対性』が墨守されやすい。原理主義の宗教は『人の都合・痛み・平等及び合理的根拠』を無視する事もある。

食べてみて毒がなく美味しければ、その後は豚肉を食べられるようにしていけばいいじゃないか(禁忌が減ってお互い気遣いがなくなる)というのは、近代的合理主義の帰結であって、その発想が『神・聖典の絶対性の侵犯』で、ムスリムからすればコーランの記述を人間が科学知で確認する事自体が不信心(人間中心主義)となる。

というよりも、科学知による検証可能性を宗教に安易に持ち込むことを許せば、『不合理故に我信ず・共同体単位の信仰心継承』の宗教の生命線が揺らぐ恐れがある。イスラーム圏では宗教が国家の求心力や治安維持の生活規範として強く作用していて、宗教・政治・生活・慣習を簡単に科学知で切り離すことも不可能である。

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