釈迦(ブッダ)とイエス・キリストの死から『無常・不死願望』を考える:知識・教養の効用とは何か?

東洋の仏教(釈迦)と西洋のキリスト教の最大の違いは『死の捉え方』にある。釈迦は死を『無記』として諦める他ない人の無常の定めとする(浄土思想はキリストに近い)が、キリストは『死と復活の物語』で人間の不死願望(消滅の不安・無意味さ)を満たそうとする。この『魂の不死+理性による救済』はソクラテスまで遡る。

ソクラテスの毒ニンジンの自死とキリストの十字架の刑死は『ヨーロッパ文明の礎石』だが、仏教や釈迦の涅槃と比べれば人が死ねば消滅するしかない現実を受け容れられない人間臭い思想だろう。『理性(ソクラテス)と信仰(キリスト)』で死(消滅・無意味)に抗い、理屈好きのギリシアの哲学者達さえも非理性的な『魂の不死』を信じた。

ヨーロッパ文明の源流にあるギリシア哲学とキリスト教は、『死ぬ人の有限性の限界』を理性教と宗教で克服しようとした営為だろう。ソクラテスとプラトンはイデア思想によって『肉体が滅びた後の愛知者の魂は不死』という理性信仰を掲げ、キリストはより大衆的に『神を信じれば死と復活で永遠の幸せが約束される』と説いた。

肉体と精神の二元論の原点も、肉体は老いて滅びる定めから逃れられないが、目に見えない精神は『不死の魂』と結びついており、現象的に肉体は時間によって滅びるが、イデアや神と相関する不死の魂は永遠に続く、個人の生は無意味にはならないという宗教的な不死願望(死回避)の物語にある。ニーチェはこの物語を否定したが。

神の永遠性と魂の不死性は、常識的に考えれば『人間の想像力の産物』であり、理性や科学によって客観的に証明されることのないものだが、古代のソクラテスやプラトンに始まり、近代の知識人・文化人のキリスト教への傾倒なども含めて、 『個人の理性が陥るニヒリズムの処方箋』として反復的にトレースされてきた思想だ。

知識・教養は表層的には“実利主義・社交と世俗”や“ニヒリズム・メタなシラケ”と親近するが、その裏に価値というか強みがあるとしたら『自己の頭一つで楽しめる気づき・社会一般の不幸に耐え得る』という“逆説的オプティミズム”だろう。

無教養と素直さ・単純さは『金・他者・承認・常識』に幸不幸を決めつけられる弱みにもなるが、一般的な人付き合いでは好かれたりもするので一長一短といったところはある。

言葉や数字の基本教養は古典古代のギリシア・ローマにおいて『人を自由にする学問』としてリベラルアーツと呼ばれたが……究極的には知識や教養を研鑽することが、他者・社会・お金に必要以上に振り回されない『自由人への志向性』を身につけることにつながれば、自ずから楽観・実利・自足も得られることになるかもしれない。

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