欧米列強と日本の中国侵略・共同統治(権益配分)の歴史:蒋介石・毛沢東の国共合作と抗日闘争・中国ナショナリズム

日本一国で急に侵略をしたのではない。ロシア革命後のワシントン体制下の日米英仏の中国共同統治・権益分配があり、日清戦争・満州事変で得た権益を日本は死守し、『北伐・国共合作』を成した国民党・蒋介石は満州を奪い返そうとした。

国土が小さい日本、なぜ中国を侵略しようと思ったのか「理解に苦しむ」=中国報道

1911年の辛亥革命から孫文・袁世凱の系譜を継ぐ『北京政府』が1928年まで存続したが、北京政府は中国全土や中国人のナショナリズムを統一するほどの影響力を持たず、『列強諸国の分割統治+軍閥割拠の内戦状態』で弱体だった。日清戦争で中国に優越感を持った日本は逆らうなら懲罰する暴支膺懲で舐めていた所がある。

その風向きを急速に変えたのが軍閥を統合して、バラバラだった中国人に『反帝国主義・抗日思想・独立心』を植え付けた国民党・蒋介石と中国共産党・毛沢東(背後にソ連・コミンテルン)であり、この新勢力が北京政府を北伐したことで中華民国は侮れない(以前のように簡単に降伏せずゲリラ的抵抗を続ける)国に変質してきた。

関東軍を中心に日本軍は中国軍よりも圧倒的に強いから、中国が生意気に逆らうなら軽く懲らしめれば良い『暴支膺懲』が幅を効かせていたが、その考えには『シナ人は臆病だから日本軍が威圧の一撃を加えて犠牲者が出れば降伏するはず(長期戦にはならない)』の甘い見通しがあり、草の根の中国ナショナリズムを軽視していた。

なぜ大日本帝国が日中戦争と日米戦争の両面に挟まれて自滅していったのか。様々な要因はあるが『客観的な現実』と『主観的な自我肥大・権益固執』のギャップを埋められないまま、『神国日本・皇軍無敗・絶対的国防圏など精神主義』を前提に一撃を加えて痛めつければ中国は怯え、米国は一歩下がるはずといった願望に縋った。

1931年の満州事変、1932年の満州国建国から1937年の盧溝橋事件は、日本にとっては『対ソの国防圏拡大・日本人居留民の受入れ先』だったが、中国には『排日思想の原因・軍隊駐留の主権侵害』であり、いずれ衝突する恐れが強かった。蒋介石は反共・抗日で揺れたが、西安の国共合作以降、対日戦に専念した。

日本一国で侵略をしたのではないがポイントで、元々は『日本・英国・米国・フランス・ドイツ・ロシア』の列強が中国大陸をあちこち切り取って分割統治・権益配分をしていたが、その中で日本が『欧米列強より多く取りすぎた・ソ連の安保上の懸念を与えた』ことで急速に孤立が深まり、国連脱退で更に危うくなった。

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