カンタン・メイヤスーやマルクス・ガブリエルの現代思想、 子供にとっての友達の意味とは何か?など

○21世紀の哲学は科学哲学や分析哲学が主流になりいわゆる「大文字の思想家」は不在となった。リオタールの「大きな物語の消滅」とも関係する。ミシェル・フーコーやジャック・デリダ、ジル・ドゥルーズなど現代思想家の巨匠が没してから後、思想哲学・文学に少々詳しい人でも「大文字の思想家の共通理解」は崩れた。

確かに現代思想家として、思弁的実在論の「実在概念の再構成」で話題を呼んだフランスのカンタン・メイヤスー、「なぜ世界は存在しないのか?」で可能的なもの全ては実在と見なせるとした新実在論提唱のドイツのマルクス・ガブリエルなどはいるが、デリダとの比較においてさえ、一般的な読書人レベルでの知名度はほぼない。

カンタン・メイヤスーの思弁的実在論は「人類がいない世界での実在を考える想像の実在論」だが、カント以来の超越論的観念論を徹底批判することにどういった現代的意味があるのかは分かりにくい。メイヤスーは「人間の思考から独立した存在」を考えたいというが、人類不在なら存在の有無など最早問題ではないように思うが……。

メイヤスーの思弁的実在論でいう思弁概念の大部分は「数学的な公理性(人間知性をどう活用しても変更不可能な普遍原則)」に依拠して、数学・科学の普遍性をかなり信奉している思想家でもある。結局の所、メイヤスーは近代以前の哲学を「数学・科学の普遍性=他の事物や観念との非相関性」を重視しなかったとして批判する。

メイヤスーの実在論の射程は、人類がいないとしても数学・科学の公理性は変わらないはずというアプリオリな真理認識をベースにしたものだ。メイヤスーは「人類誕生以前の祖先以前性」だとか「人類消滅以後の可能な出来事」だとかを想像しつつ、想像でも数学的・科学的な人の意識に頼らない真理は最も確実な実在とする。

マルクス・ガブリエルの「なぜ世界は存在しないのか?」で示唆される新実在論は、英訳しかないが読めば哲学的な読書が好きな人なら面白く読める内容だろう。ガブリエルは自然主義・科学主義の抵抗者で、端的に言えば「人間の心・精神・記憶の機能」も実在するものにしたい(人固有の実在性の復興願望)と考える思想家だ。

ガブリエルの新実在論は「世界は見る人のいない客観的なモノの世界だけでもなければ、見る人の構築する主観的な意識の世界だけでもなく、複数の多元的世界が同時的に両立して実在するのが世界である」というテーゼに集約される。世界の実在性を主観・客観の一元性で固定せず、モノも心も共同認識も含めて実在と見なす。

○理想の子供は「本人が健康・幸せで面白い人生を送る軸」と「親の利益・体裁にも合致した普通な社会適応の軸」と「社会・他者の役に立つ社会貢献(倫理)・成功(名誉)をする軸」の三軸を考える事ができるかも。

男の子ママと女の子ママ「我が子に望むTOP3」の違いは?親が思う、理想の子ども像(http://mixi.at/a5ecbWa)

○高校生頃までは一緒に行動したい友達が欲しい子は多いだろう。女性は高校・大学の同級生等と大人になってからも友達付き合いを続けている人は比較的多いので、気の合う相手なら大切にすべき。

「友達がいない」子どもに言われたときに母としてできること(http://mixi.at/a5eZcwp)

大人になってからも同性の友達が必要か、昔からの友達と努力して関係を維持すべきなのかは個人差が非常に大きい。相互の人生の進み方が似たような感じでないとどこかで別れやすいのはあるが、30代以上になって頻繁に友達に会いたいかといったらそうでもないという人は結構多いかもしれない。

子供時代の友達はその場でフィーリングや遊び、性格、相性が合うかが基準だが、今の10代の若い世代を見ていると基本的に中身も見た目も「類似性(似た感じ)の強い人同士」で数人の友達グループを作っていることが多く、異質性を交えない傾向はある。男でも細身・長身・肥満など背格好まで似た感じの集団が多いような……。

自分自身が一人でやりたい活動が多い人は、最終的にそこまで同性の友達は多くは要らなくなるし、一部の親友を除いては自分から連絡したり誘ったりも無くなってくることも多い。仕事関係以外で異性と遊ぶのが好きか同性と遊ぶのが好きかでも、性格や生き方は結構分かれるが、「同性の友達が少ない」と警戒される向きもある。

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