中沢新一らの「人類学」から現代人の脳の思考様式・自然観を考えてみる:現代人は想像力の飛躍的拡大を楽しんで悩む

現代人の脳と前近代の狩猟採集民の脳を比較した時、現代人の脳の方が知覚・生活経験に拘束されない豊かな想像力を持つ。「現代人の思考・生活圏の自由度」の高さを前提にする中沢新一らの人類学的な見方は面白い。識字率も低い狩猟民・牧畜民にとって、「鹿・羊・牛」はリアルな血を流す生き物・食糧で想像の余地は乏しい。

普段、獲物・家畜に接することのない現代人にとって「鹿・羊・牛」は、「血液・においを伴う食料資源としての動物」ではなく、むしろ「物語・想像を前提にしたイメージやキャラクター」であり、そこに愛玩動物的な感情移入さえ伴う事になる。リアルな動物を利用する狩猟民にとって屠殺の倫理や感情的抵抗は問題にならない。

「リアルな知覚・生活の実用」に脳の機能が強く拘束されているため、「イマジネーションの範疇」がどうしても余暇のある現代人より狭くなる。生きるための行動(食料・資源の動物)以外の余計な思索は捨象される。狩猟民は「具体的な事物・動物の血のにおい」の中を生きるが、現代人は「抽象的な観念」から事物を演繹する。

戦争・狩猟・屠殺の具体的行動から距離を置いた現代人の手一般は、「人間・動物の血液の感触とにおい」という穢れに触れずに生きている。その分、具体的なリアルの束縛に対する「穢れ・惨めさ・恐怖の意識」が強まる、汚れ仕事を武士・平民に回した平安貴族のように精神的強度が落ちて柔弱になったのである。

現代人、特にインテリや裕福な人ほど、「直接的かつ具体的な事物・経験の束縛」から自由だが、その反動で「リアルの知覚刺激不足による物足りなさ・空虚感」も生まれやすくなっている。引退したエリートサラリーマンには、お金が十分あっても畑仕事のような「土(リアルな事物の触感)」に触れたい人がいる理由でもある。

多くの現代人にとって、近代初期の工場労働のような単純作業を延々と繰り返すことはかなりの苦痛やストレスになる。それは教育を受けて知識の増えた現代人は、「頭の中だけで自由な思索や想像を無限に巡らせることが可能になったから」で、この常時の想像力を人類史を覆う人間の共通特徴と考えるのはおそらく間違いである。

不便を極めた貧しい環境、獲物・木の実を取って何でも自給自足の手間暇がかかる「昔の生活様式」では、「モノ・生活が頭の中(イメージ)と密着し過ぎている不自由」がある。現代人と比較するとその脳機能が極めて実際的なことに限定される。現代人は「世界の具体から遠ざかる自由な脳」を持ち、抽象が具象に先行している。

中沢新一は「屠殺した動物の血液・内臓の生々しさを知覚しながらの生活」を知っているかいないかだけで、リアル(具体的なモノ・生活)がどれだけ精神の自由度を縛るかが変わるとする。前近代社会の人口の少ないコミュニティでは、何から何まで事前に慣習・掟で決められ、人間関係・婚姻・仕事さえ運命・具体物の下にある。

前近代の部族的コミュニティーにも、コミュニティーを越境して自由になろうとするシャーマンや放浪者、無縁者がいたが、被差別的な処遇を受けやすい。中世以前に自由を求めたそれらの人たちにしても、「近代的な個人の自由」を求めたわけではなく、「人為・世俗の法」を超えた「普遍の法(ダルマ)」を求めた側面が強い。

コミュニティーを離れて生きることは前近代では困難だったので、大多数の人は「脳機能が限定された不自由な生」を受け容れリアルの縁故・モノの世界と調和した。一方、無縁者・宗教者の「人間・世俗の法」を捨て遁走する者でも、「個人的な自由の世界」を目指したのではなく「より不変的な法則(ダルマ)」に従おうとした。

「自由と拘束」、この二項対立図式は社会的動物である人間の生存・幸福・経済・想像力を根本において支配している原理である。そして、自由には「近代的な何者にも干渉されない自由」と「前近代な人為・世俗のルールを超越する普遍的な法(ダルマ)に従う自由」の二種類がある。後者は思想的・宗教的な側面が強い。

レヴィ・ストロースが未開部族社会・婚姻関係をフィールドワークして、「構造主義」という哲学史上の一大ムーブメントを引き起こした。現代では社会全体を統御する共通コードとしての「構造」が見かけの上で崩壊しようとしている。だが「個人単位の相対主義・イマジネーション」でも覆せない法(ダルマ)が構造の上部にある。

人間知性は「自然」を超越しようとして、倫理の側面に関しては「私たちは自然の摂理に負けない潜在力を持つ存在である」と、自然主義の誤謬で異議申し立てをする。確かに倫理学的議論として一考の余地はあるが、自然あるいは時間はそんな異議申し立てにびくともせず、常に人間個人を過去の忘却される存在に押し流していく。

動物には生きる意味も苦悩もなく、進化論的・地球物理学的な「自然の摂理」に従うのみだ。だが人類が動物以上の存在として自然の摂理そのものを超越できるわけではない。自然とは「世界・宇宙を包括する普遍の法(ダルマ)と正確に連動した不自由さの壁」とも言える。その壁は厚く高い、人間の抵抗を寄せ付けぬ冷厳な現実だ。

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