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高学歴・高収入であれば現代の『勝ち組』といえるのだろうか?:格差社会で過熱化する学歴競争の揺り戻し現象の弊害

受験に失敗した高校三年生の兄が、それをからかった小学五年生の弟を刺したという事件か。少し前も受験で母子の心中事件があったが『詰め込み時代の受験ノイローゼ』のようなものの再来が起こっているような感覚にさせられる。

受験の失敗を人生の失敗とする短絡な白黒思考だが、学歴の競争と格差社会の将来不安・不利が結びつきやすくなっており、それに対する挫折感にセンシティブになりやすいのかもしれない。

小5弟刺した高3逮捕=殺人未遂容疑―滋賀県警

「レールに沿った生き方」とか「リスクの小さな進路」とかにもつながるが「一つだけの価値観・生き方・人間関係」だけに凝り固まって「これがダメになったらすべてダメ」と考えるのは人生の破滅・転落・事件を導きやすい。思春期挫折症候群なる概念もあったが「これがダメならどうするか」の柔軟さと方向転換が大切だ。

人生では思い通りにならない局面や逆境が少なからず起こってくるものだが、『他人』や『モノ』に当たって殴ったり刺したり壊したりしても、本質的な問題状況は何も解決せず余計に自分の立場が悪化する(あるいは殺人・傷害致死等で人生が破滅に近づく)。

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良い大学を出れば“社会経済的な優遇の初期条件”は得られるが“主観的な幸せ”とは大きく関係しない。

『偏差値・学歴・学力成績の順位』というのは、非常に分かりやすい『階層序列の相対的な位置づけ』であるため、社会的・理知的な存在としての側面が強い人間の優越感や劣等感と結びつきやすい特徴を持つ。

例えば、所属する中学校・高校の定期テストで一位を取れば、自分はなかなか頭が良いのではないか、将来は明るいのではないか(それなりの会社に就職したり専門的な職業に就けるのではないか)と自己評価の高まりがあるし、親や周囲も一定の期待をするだろう。

■「いい大学を卒業すると幸せになれる」でネット紛糾 「お金と知識は邪魔にならない」と支持する声もあるが

更に、地域・市・県・全国の模試で上位の成績を取ったり一流大学に合格したりすれば、自分の知的能力や情報処理能力が社会の平均をかなり上回っているとの自尊心・自己確信は深まるだろう。

現実問題として、大企業・官庁のサラリーマンや医師・法曹などの専門家、大学・学校・研究機関の研究者(教育者)として働くのであれば一流大学を卒業するアドバンテージはかなり大きい。そういった難関大学の卒業生にしか門戸を開いていない待遇の良い企業・組織や学歴学部の制限がある業務独占資格が多いということである。

しかし、これは一流大学を出てから大企業・官庁(公的機関)に就職することが、一般庶民にとってもっとも無難な中流階層へのキャリアパスであるということを示すに過ぎないし、物事を理解して問題を解く頭が良くても、企業・組織・人間関係への長期的な適応が得意かどうか(学校を出てから組織に適応して安定した収入を得続けられるかどうかそれが苦にならないか)は分からない面も多い。

良い大学を出れば幸せになれるというのは、『主観的な幸福の個別性・多様性』と『多様な個人が生きたいと願う世界やステージ(人間関係の種類)の差異』を考慮していない表層的な見方に過ぎない。

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学歴の効用(心理作用)と限界と歴史

■「学歴は関係ない」は暴論? 公平を謳う企業の採用に潜む、隠れた学歴差別の罠

昭和中期までの学歴は、大学進学率が低くて家柄・経済力と最終学歴の相関が強く、大半の庶民が経済的理由(親の教育意欲の低さ・家計の支援要請)によって中卒・高卒で就職していった。

そのため、学歴は『擬似的・近代的な身分制度(大卒=無条件のエリート候補)』に近いものとして捉えられていたと同時に、庶民の所得上昇に従って『学歴=社会・職業階層の流動性を高める制度』として親の子に対する勉強熱(学力競争の一点集中化)が急速に高まった。

家の事情で進学が許されなかった人の割合が高い50~60代以上の世代は、自分の学歴や職業的威信に対する劣等感だけではなく、『学力競争の機会の格差(家が裕福でなかったから中卒高卒に甘んじただけ)』に対する未練も強い傾向がある。

また、この世代は『年功序列賃金と終身雇用・学歴不問の採用環境(金の卵・努力と実績の人事評価)』によって、真面目に同じ会社で働き続けてさえいれば学歴が高くなくてもそれなりの地位・所得に辿り付けた層(高卒の現場叩き上げで上場企業の経営陣に入ったような人もいる)であり、『子供の教育に対する投資の余力』を持っていた。

端的には、現在30~40代の人たちの親の世代は『学歴の階層的な権威主義・俗物主義』にかなりの程度影響されている人が多く、新卒時(20代前半での卒業時)の学歴を生涯にわたって変えられない『知性・選良・権威のスティグマ(烙印)』のように捉えて、その入試難易度の高低によって相手に対する態度があからさまに変わったりしやすい。

この権威主義は、『現時点の能力・知性教養の高低』以上に『過去にどの大学を卒業したか』を重視するという意味において、擬似的な身分制度として機能していた。この世代は、経済的事情や早くにほとんどが結婚して子供を持っているという環境からしても、社会人になってからもう一度大学入試を受け直すといった選択肢自体が想定されていない世代(稀に高齢者になってから大学入試を受けてみるといったメリットを考えない課題へのチャレンジをする方もいるけれど)でもある。

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大卒前提の子供の教育費高騰は、『非機能的な孔雀の羽根』の華美化のようなものか。

希望すれば(どこの大学でも良いのであれば)ほぼ全員が大学に進学できる『大学全入時代』と揶揄される現代では、『大学に行くことの利点』よりも『大学に行かなかったことの特殊な事情・要因』に注目されて不利益を受ける恐れが高まってしまった。

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つまり、それほど頭が良い人でなくても(平均レベルかそれより下の学力の人でも)それなりに学校に適応して勉強していれば、どこかの大学には入れたはずなのに行かなかったのはなぜなのかという痛くない腹を探られやすいという心情的ハンディがある。単なる形式的な学歴の資格要件というのは『本人の優秀性・有能性』を評価するものではなく『本人の意欲・家庭環境(経済状況)・交遊関係の特殊的な問題点』を勘ぐるような基準を背景に持つ文化階層主義的な趣きを持つ。

例えば、パチンコ屋のホール作業であるとか営業事務・警備員・工場作業であるとか、その仕事内容そのものに学力・知性の高低が何ら影響しないと思われる仕事の募集であっても、応募資格に『高卒以上』と書かれていて中卒者の応募を未然に排除しているケースは少なからずある。中卒者でも真面目に働く意欲があって素直に学ぼうとする性格であれば、こういった仕事への職業適性は相当あるはずなのだが、なぜか企業の多くは門前払いを喰らわす。

それは現代では高校に行くのは当たり前という価値観が極めて強いために、『敢えて高校に行かなかった(行けなかった)理由』を様々に推測するためで、高卒者のほうがより無難な採用に感じられるので、『人物評価のコスト』を節約したいからである。

中卒者と高卒者の双方を比較して、その具体的な人間性までは到底面接で評価しきれないが、高卒者のほうが『社会の平均的な価値観・常識』に沿った性格・生き方である蓋然性が高いと推測すること(9割以上が高卒以上でありそれに合わせているから)で、そこに足切りの意味での資格要件が設定される。高卒者の割合が5割を切っていた1960年代頃までは、それなりの規模の一般企業でも学歴による足切りはなく、中卒ですぐに都市部に出て就職し、それなりの昇進ができた者も少なからずいる。

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