良い大学を出れば“社会経済的な優遇の初期条件”は得られるが“主観的な幸せ”とは大きく関係しない。

『偏差値・学歴・学力成績の順位』というのは、非常に分かりやすい『階層序列の相対的な位置づけ』であるため、社会的・理知的な存在としての側面が強い人間の優越感や劣等感と結びつきやすい特徴を持つ。

例えば、所属する中学校・高校の定期テストで一位を取れば、自分はなかなか頭が良いのではないか、将来は明るいのではないか(それなりの会社に就職したり専門的な職業に就けるのではないか)と自己評価の高まりがあるし、親や周囲も一定の期待をするだろう。

■「いい大学を卒業すると幸せになれる」でネット紛糾 「お金と知識は邪魔にならない」と支持する声もあるが

更に、地域・市・県・全国の模試で上位の成績を取ったり一流大学に合格したりすれば、自分の知的能力や情報処理能力が社会の平均をかなり上回っているとの自尊心・自己確信は深まるだろう。

現実問題として、大企業・官庁のサラリーマンや医師・法曹などの専門家、大学・学校・研究機関の研究者(教育者)として働くのであれば一流大学を卒業するアドバンテージはかなり大きい。そういった難関大学の卒業生にしか門戸を開いていない待遇の良い企業・組織や学歴学部の制限がある業務独占資格が多いということである。

しかし、これは一流大学を出てから大企業・官庁(公的機関)に就職することが、一般庶民にとってもっとも無難な中流階層へのキャリアパスであるということを示すに過ぎないし、物事を理解して問題を解く頭が良くても、企業・組織・人間関係への長期的な適応が得意かどうか(学校を出てから組織に適応して安定した収入を得続けられるかどうかそれが苦にならないか)は分からない面も多い。

良い大学を出れば幸せになれるというのは、『主観的な幸福の個別性・多様性』と『多様な個人が生きたいと願う世界やステージ(人間関係の種類)の差異』を考慮していない表層的な見方に過ぎない。

高学歴でも高所得でも上昇志向で競争を続けるということは達成感・優越感もあるが、それと同等以上にストレスや面倒なこと(大変なこと・難しい内容への取り組み)も多く、『社会経済的なステータスの上昇(他人から見た分かりやすい出世・成功・権威)』を人生でもっとも優先すべき価値だと信じている人以外にとっては、それほど重要なものではないとの見方も成り立つ。

『学歴社会では学歴が最も重要である』というのも、『学歴は関係なくて実力(処世と稼ぎ)が全てだ』というのも、同程度に『社会経済的なステータスの競争・他人から幸せに見えるかどうか』に偏った表層的な見方であり、どちらに行けば幸せになれるかは『自分がどういった状況や相手や生き方や世界を幸せ(居心地が良い)と感じるか』にかかっている。

バカよりも賢いほうがいい、物事を知らないよりも知っていたほうがいいという一般論は概ね成り立つが、知識・見識を広げて人文学的な世界の見方や生の解釈を深めていく場合には、誰しも一度は『ニヒリズムの罠・世俗主義の空虚感・競争社会の俯瞰(知足の感謝や謙虚や関係を失った知の傲慢)』に捉えられやすく、生半可な知性の高さや教養の深さは『知識・教養がない人以上の人生の苦しみ・迷い』を招きかねないものでもある。

知識や教養がなくて難しいことは何も分からない(政治経済・社会問題・学問や本などには一切興味なし)という人でも、世の中のルールや常識的価値に素直に従って努力することができ、日々の生活を営むための『人間関係・社会生活・自分にできる仕事』に適応しやすい人であれば、『その人にとっての幸福』はそれなりに手に入れやすいものである。

その人が別に、小難しいことを考えたいわけでもなく、難解な知識・情報を集めて知的生活(読書ライフ・思索思弁)を楽しみたいわけでもなければ、『知識・知性の相対的な価値』は経済的な実利になるもの(実学的なもの・資格や免許のための勉強・就職に役立つ学歴など)を除いては殆ど価値がないということになるだろう。

『知性(知識を基盤にして考える状態)に憧れる無知な人』や『無知(難しい事を考えずに快楽志向で動く状態)に憧れる知識人』がいたとしても、それぞれが本音の部分では『今の自分のアイデンティティーをそれほど悪くないと思っている』ことのほうが多いために、実際の行動や努力として『今の自分と正反対の生き方や知的姿勢や興味関心』には変われないし変わろうともしないもの(本当に変わりたい人は行動・興味・関係を変えてくるだろう)なのである。

人はそれまでの人生の生き方や人との関わり、頭の使い方(知的な志向性の方向・強度)によって『住みたい世界や関わりたい対象が違ってくる』ともいえるが、学歴や知性の有無に関わらず、『自分の住みたい世界・やりたい事柄・関わりたい対象(人間)・不満の少ない仕事や経済の状態』を手に入れられる人が主観的な幸福度が高いということになる。

良い大学を出ることそのものは主観的な幸福とは直結しないが、『世俗的(社会一般的)な幸福を感じるための有利な条件・手段』として活用できる場合も多い、例えば『平均以上の収入が欲しい人が待遇の良い企業に就職しやすくなる・権力権威が欲しい人が社会的地位を上昇させやすくなる・結婚したい人が経済条件の部分では有利になる』といった道具性が学歴にはある。

一方で学歴・知性などがなくても、『人間性に魅力があり人を惹きつける・容姿や話術などで異性にモテる・自分に愛情や敬意を寄せてくれる人に恵まれている・自営業などでお金を稼ぐ才能に優れている・謙虚にどんな仕事でも一生懸命に頑張れる(小さな出来事に感動したり感謝したりできる)・難しいことを考えないし別に知りたくもないので楽観的に日々を送れる・今手に入れられる関係やモノだけで十分幸せと思う・教養趣味や文化芸術、言語活動のフィールドには全く興味がなく行動と知覚がすべてだ』などの諸条件があれば、主観的な幸福度の面では、絶えず努力し続けるフィールドを目指す傾向性のある高学歴・高所得の人よりも高くなっている可能性はあるだろう。

主観的な幸福度のハードルは、物事を斜に構えて小難しく考えない素直な人、魅力的な異性や仲間と一緒にいてコミュニケーションを楽しみ、美味しい物を食べたり欲しい物を買ったり旅行に行ったりといった知覚・行動の分かりやすい快楽を求め、結婚して愛する家族を作ってというシンプルでヒューマニスティックな人生設計に適応しやすいという人のほうが下がりやすいかもしれない。

学歴ではなく知性・知識・教養の優位があるとしたら『色々な背景や仕組みを知った上でもなお楽しめる境地に達する可能性』に近づけるということだが、それでも学歴・知識・地位のある人の中で『難しく考えずシンプルにいきたい・楽観的なバカになりたい・知覚や関係を中心にしたリア充になりたい』という声は結構聞かれたりもするので、本来は『メタ視線で本質部分をあれこれ考えない人(ベタに今の自分の位置から楽しめることを探せてよく食べられて眠れる人、人に共感しやすく好かれやすい人)』のほうが分かりやすい型の幸せには近いだろう。

しかし、幸福実感の多様性だとか各人の脳内に蠢く表象・思索の個別性(難しいことは何も考えてない状態も含め)だとかを考えれば、『幸福という自分にとっての好ましい幻想(=望ましい人生のストーリー性・納得できる自己定義の範疇)を信じやすい現時点の心理状態や興味関心』があるかないかの違いに依存する部分も多い。

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