映画『ラストスタンド』の感想

総合評価 76点/100点

凶悪事件とは無縁の小さなメキシコ国境付近の田舎町ソマートン、そこで保安官として勤めるレイ・オーウェンズ(アーノルド・シュワルツェネッガー)の元に、収監中に脱走した麻薬王のガブリエル・コルテス(エドゥアルド・ノリエガ )がその町を通過するという一方がFBIからもたらされる。

身体能力に秀でた凶暴で残酷なコルテスは、麻薬カルテルを親から引き継いだボンボンだが、一流のプロドライバーとしてのキャリアと生きるか死ぬかのスリリングな限界状況を楽しめる精神を持ち、追跡してくるFBIを翻弄して振り切っていく。麻薬市場から流れ込んでくる莫大なカネと州警察でも抑えきれない圧倒的な暴力・私兵組織によって、何でも思い通りにしてきたコルテスは、自分の精神をハイにしてくれる刺激や手応えのあるハードルに飢えている。

FBIや警察官を殺傷して退けながらの脱走劇もある種のゲーム感覚であり、メキシコ国境を越えるところまで事前に入念にシミュレートした脱出計画を淡々と遂行してゆく。

盗んだモンスターカーのシボレー・コルベットZR1を、卓越したドライビングテクニックで時速400キロ超で飛ばし続ける。追跡するFBIや先回りして待つ警察の装備と人員を遥かに凌ぐ『私兵の軍隊』を組織して戦争並みの軍事攻撃を仕掛けて突破していく。

バリケードを作って拳銃やショットガンで地道に応戦する地元警察だが、コルテスの私兵たちの最新のマシンガンやパトカーごと吹き飛ばすロケットランチャーに対抗することはできず、次々と防衛ラインを突破されてしまう。『軍隊(傭兵部隊)対警察・保安官』の力量差があり、コルテスの猛スピードでの逃走を止めるだけの実力が警察側にない。

メキシコと接する田舎町のソマートンを麻薬王コルテスが通過するという報告を受け、コルテスの率いる傭兵の軍隊や最新鋭の武器に小さな町ではとても対抗することはできないから、黙って通過させたほうが安全だという町民の意見もでるのだが、法律に違反する不正や麻薬の被害拡大を見逃すことはできないとするレイの決断により、ソマートンを守るレイを筆頭とする保安官たちが『ラストスタンド(最後の砦)』としてコルテス逮捕に備えることになる。

武器は『武器博物館』を自分で作っている町のコミカルな武器マニアであるルイス・ディンカム(ジョニー・ノックスビル)が備蓄していたものを使うことになるのだが、コルテスの傭兵部隊の銃器と比べるとかなり旧式で、第二次世界大戦のドイツで使われていたモデルのような代物も含まれている。

レイとジェリー、サラ、フランク、フィギー、ルイスでコルテスの一団に立ち向かうが、“ガンアクション・カーアクション・素手の格闘戦”という激しいアクション映画の要素が一通り揃っており、60代になったアーノルド・シュワルツェネッガーのタフな演技も健在で、渓谷に急ごしらえで建設したメキシコに続く橋での“コルテスとの一騎打ち”も見応えがある。

アメリカの銃社会や憲法が保障する武装権(合衆国憲法修正第2条)について、個人的には脅威や弊害のほうが大きいと思うが、自分の身は自分の実力・武装によって守る、銃器を持った外敵を打ち倒し追い払うには武装しなければならない(国家権力からの市民社会の自立と抵抗を銃が保証する)というアメリカの『保守的な建国精神』というのは、こういった銃撃戦の多いハリウッド映画にも反映されているな……。

『ラストスタンド』に見るソマートンという小さなコミュニティの自衛能力や法秩序の維持、そのための個人の銃武装(外敵と戦う意志)というのは、日本では中世期の惣村社会や国人・地侍、一向一揆(浄土真宗の加賀・石山本願寺の独立的コミュニティ)といった時代まで遡らないと認めることはできない。

豊臣秀吉の刀狩りが終わった近世の江戸期以降は良くも悪くも『お上意識』によって、一般庶民が武装して自立性・抵抗力を担保するという価値観は急速に消滅したといっていいし、それが日本の治安が良くて平和な理由でもある。明治維新以降の国民教育や大正デモクラシーの没落(右翼台頭)、大東亜戦争の総動員体制(治安維持法)によって、日本では更に『国家権力(法治領域)』と『市民社会(地域コミュニティ)』の境界線が殆どなくなる。中央集権化・国民平準化によって『地域や個人の独立性・主体性』は昭和期を通してスポイルされる形になった。

一方、アメリカの保守層に見られるラディカルな自由主義や銃の武装権、コミュニティの自治権というのは、ある意味では『前近代的なフロンティア精神(管理主義的な国家権力に取り込まれて抵抗力を奪われたくないという地域・個人の自由独立度)』の象徴みたいなものか。しかし、国の制度に飼い慣らされたくない保守的なアメリカ人のロマンチシズムをくすぐるというのは理解できても、多発する銃器の関係する犯罪・事故の原因となっている以上、歴史的なロマンスは現代的・実際的な安全管理(常識的な防犯・治安の要請)の前に屈することになるだろう。