映画『日本のいちばん長い日』の感想

総合評価 89点/100点

『昭和天皇独白録』でもっとも印象的なのは、天皇自身の言葉で『国民は私のことが非常に好きだが、私があの戦争に反対してベトー(拒否権)を行使し平和のための努力をしていたならば、私は戦争が終わるまで精神病院に監禁されていたか、あるいは内戦が起こって日本は大混乱に陥り私も側近も殺されていたであろう』という趣旨の言葉を、米国全権ダグラス・マッカーサー元帥に語っている部分である。

半藤一利原作の映画『日本のいちばん長い日』は、昭和天皇のこの言葉を裏付ける事件、大日本帝国最後の日に陸軍主戦派・過激分子が起こした反乱劇である『宮城事件』を畑中健二少佐(松坂桃李)を中心にして取り扱っている。

宮城事件は大日本帝国がなぜ勝ち目のない日米戦争に踏み込んでいったのか、どうして満州事変以後の中国大陸における軍事的野心の肥大を誰も止められなかったのかを象徴する大日本帝国末期の陸軍過激派のクーデター事件であり、5.15事件、2.26事件と比較しても天皇の直接的な意志表示にさえ従わない『戦争と癒着した国体思想』の現れとして考えさせられる事件である。

残念ながら、日本の歴史教育では、ポツダム宣言受諾と敗戦・武装解除の玉音放送を武力で阻止しようとした『宮城事件(昭和天皇に対する実質の反乱)』はまず触れられることがない。

だが、この事件は天皇主権体制において天皇自らが示した明確な『聖断』にも従わない青年将校が国内にいたこと、天皇・軍の大将や参謀でさえ戦争をやめるといえば殺されかねなかった現実を示唆しており、『軍国教育』が純粋・愚直・真面目な青年の精神に与える方向転換できない洗脳効果・集団心理(セクト主義)の恐ろしさを物語っている。

日米戦争が熾烈さを極め、ミッドウェー海戦の敗北以降は戦況がますます劣勢・悲惨になる中、大日本帝国の大本営は一貫して『徹底抗戦・一億玉砕・本土決戦』のスローガンを愛国心の踏み絵として唱え続けた。国民に対しては国家・天皇のために生命をも惜しまずすべてを戦いに投げ出し、一丸になって団結すれば鬼畜米英を撃破することができるという『国民精神総動員』を呼びかけ、大政翼賛体制下の戦争に反対したり協力しないものは非国民として規制・弾圧の対象となった。

特に戦争末期、日本陸軍は海戦で連戦連敗を重ねる日本海軍がアメリカに対して弱気になっているのを受け、海軍にまともな戦艦がないといえど陸軍には未だ本土決戦を断行できる70万の士気盛んな精鋭ありと嘯いて(実際は中国・東南アジア・南方戦線において多数の餓死者・病死者を出して兵站も寸断され海軍以上に戦闘力は疲弊していたが)、『徹底抗戦・本土決戦』を為す軍の主体は陸軍であるとして『陸主海従』の圧力を海軍にかけていた。

日本の陸海軍の面子争いと内部対立が戦争末期においても繰り広げられ、陸軍首脳が『本土の日本臣民約2000万が命を擲つ特攻精神で決戦に望めば米軍を撃退して国体を保持できる』という空想的な国土防衛論に耽溺するような有様で、東条英機率いる陸軍主戦派は、広島に原爆投下を受けた後の鈴木貫太郎(すずきかんたろう)内閣にあっても『陸軍の存在感誇示』に腐心していた。

連合国軍の通達では、日本が即座に無条件降伏に同意しない場合には、広島・長崎に続いて日本の主要都市に原爆投下を行って降伏するまで壊滅的破壊を行い続けると宣言されていた。陸軍の徹底抗戦論に流されてポツダム宣言受諾を延期していたら、後何発かは原子爆弾による決定的な攻撃(首都東京の壊滅)を受けていた可能性もあった。

昭和天皇(本木雅弘)が『御前会議』において、日米戦争で和平を求めて降伏すべきという異例の聖断を下したことは、『最高戦争指導会議』の結論のでない膠着状況の打破に大きな影響を与えたが、天皇がそれまでの立憲君主制の前提を覆して決定的な発言ができる状況を会議で作ったのが鈴木貫太郎首相(山崎努)であった。

昭和天皇が行った戦争の歴史の分岐点となる選択でもっとも大きな影響があったのは、『日本のいちばん長い日』で阿南惟幾(あなみこれちか,役所広司)陸軍大臣と並ぶ主役の一人・鈴木貫太郎に『組閣の大命』を下したことであった。

鈴木貫太郎は1936年の2.26事件で、『君側の奸臣』として陸軍将校に3発(4発)の銃弾を撃ち込まれて暗殺されかかった人物だが、侍従長を務めた経緯から昭和天皇とは懇意な仲であった。鈴木は海軍の古参であり枢密院の重鎮であったが、国会議員・閣僚としてのキャリアは皆無だったため、天皇からの首相就任への要請をいったんは固辞したが、終わりなき戦争に和平への道筋をつけて欲しいという大命の遂行を『最後の奉公』と位置づけて組閣した。

鈴木の首相任命時の77歳2ヶ月の年齢は、現在に至るまで破られていない最高齢の首相任命記録だが、何度も死線をくぐり抜けてきた鈴木は、天皇から受けている戦争終結の大命を果たすため、陸軍主戦派を代表する阿南惟幾陸軍大臣の同意を取り付けるために尽力する。

山崎努が演じる耳の遠い好々爺である鈴木貫太郎は、掴みどころのない対応で主戦派を煙に巻いたり、降伏条件の国体護持の議論を詰めていくが、役所広司演じる阿南惟幾も本心では『降伏する他ない現実』を認識しながらも、自らが育ててきた日本陸軍の若手の主戦派を納得させることがどうしてもできずにいた。部下や後輩の前では、徹底抗戦でどんどん行けの陸軍精神の建前を取らざるを得ず、和平・降伏するしかないという現実的な認識を示すことは、どんなに階級・役職が上でもそのまま日本陸軍に対する裏切りとみなされる恐れがあった。

陸軍大臣は『徹底抗戦・本土決戦』を実現するために陸軍が内閣に送り込む代表者としての位置づけにあり、強硬派として振る舞ってきた阿南惟幾もまた御前会議出席に当たって、陸軍の若手将校らから敬礼・激励を受け、『終戦阻止・ポツダム宣言反対を何とかお願いします』として送り出されていた。

最後の御前会議に際して、狂気的な形相をした部下の畑中健二少佐(松坂桃李)らから、阿南惟幾は上官でありながらも半ば脅されるような口調で、『もし御前会議においてポツダム宣言受諾が決定されれば我々陸軍は即座にクーデターを起こし、鈴木首相を含む和平派を拘束して日本全土に戒厳令(軍政)を敷き、国体護持で徹底抗戦しますから是非すぐに合流してください』と告げられる。

今すぐにでも暴発しそうな畑中健二少佐、荒尾興功大佐、稲葉正夫中佐、井田正孝中佐らの鬼気迫る訴えを前にして、阿南陸相は『御前会議において最善を尽くす。私を信じてくれぐれも軽挙妄動のなきよう、徹底抗戦に備え軍規を一層厳しくせよ』とクーデターの決起を抑えようとする。

猪突猛進の勢いを示す青年将校らの戦争継続の思いは激烈であり、天皇の勅命にさえ従わない空気を醸し出している。阿南惟幾が彼らを抑え続けることにも限界が来ており、もし阿南がわずかでも和平に傾けば、『阿南を徹底抗戦派の中軸』と見る青年将校らが失望・憤慨してすぐに反乱へと結びつく情勢だった。

昭和天皇は小磯国昭の前に個人的にその忠誠心に信頼を置いていた統制派の東条英機陸軍大将(陸軍で最も権力を握っていた人物の一人)に、『日米開戦を何としても回避せよとの内命』を含めて組閣の大命降下をした。これは誰も抑えられそうにない陸軍強硬派を抑えるため、強硬派の中心的リーダーで原理的な天皇主義者でもある東条英機に『天皇直々の内命』を与えるという非常に際どい賭け(毒をもって毒を制す)であったが、昭和天皇はこの賭けに敗れた。

天皇への忠節心が人一倍強かったこともあり、東条は東条なりにそれまでの主戦論を引っ込めて、英米協調派の東郷茂徳外相の協力も得ながら、天皇が望んだ開戦回避のための外交的努力を積み重ねた。しかし、元々が開戦派・統制派の首魁であり、いったんハルノートの最後通牒を突きつけられて戦端が開かれてしまうと、途端に陸軍主戦派を主導するような立場へと転換してしまい、天皇は東条英機という人物に酷く落胆することになった。

陸軍が条件交渉において絶対に譲れないとしたのは、大日本帝国陸軍が無数の血を流して獲得した歴史的成果だとする『満州国』であった。米国が求める『中国大陸からの撤退』に際して、満州国だけは例外とする条件を死守せよ(満州は日本の生命線・絶対的国防圏の中枢)という軍内部の意志は極めて強固で、満州国を失うことに譲歩する選択肢はなかった。

蒋介石政権を支持していたアメリカは、初めから『満州国返還』を含めた中国大陸からの日本の権益すべての排除を目指していたが、これは満州事変以後の日本が『満州を超える利権』を求めすぎた反動とも言える歴史の悲劇でもあった。満州事変で得た土地と権益に満足して、南京・北京・天津・上海など中国の都市への野心を出さずにソ連(の南下政策)だけを睨む英米協調路線でいけば、日本は盧溝橋事件後の大陸侵略を回避して朝鮮半島と満州の利権を戦後まで温存できた可能性もある。

アメリカとソ連が中国からの日本の追い出しを目標にして、がっちり手を結んでしまった辺りから(日本からのソ連のスターリンへの対米協調路線の申し出もアメリカのルーズヴェルトにすぐに筒抜けになっており、米ソが連携して日本を開戦の暴発まで追い込む路線が固められていた)、日本の敗戦は不可避となった。

映画『日本のいちばん長い日』の最大の見所は、戦争末期における軍の指揮命令系統の混乱と崩壊であり、満州事変前後の段階からシビリアンコントロールを失っていた日本陸軍は、軍内部の階級・権威によってももはや将校・士官の思想的な暴走や命令からの逸脱を制御しづらくなっていた。

軍の上層部が逆に青年将校らの血気・直情を宥めすかすという異常な状況が続き、(元々は相当な強硬派であったはずの)阿南陸相に至っては『陸軍主戦論の自縄自縛』に陥って、部下からその行動・意思決定がぶれないか監視され続けているような格好となっている。

西南戦争で激情にはやる旧薩摩軍(私学校党)に担がれた西郷隆盛翁の立ち位置にも似ているが、張り詰めた弓が今放たれようとしている状況で、何とか弓の弦を引き絞ったままで踏ん張っている厳しい立場に、当時の陸相は置かれざるを得なかった。ポツダム宣言にあった『全日本軍の無条件降伏・武装解除』は、そのまま日本陸海軍の解体であるから、軍部としては官僚主義的な組織防衛の観点からも呑める降伏条件ではなかった面がある。

本土決戦のため、天皇陛下の終戦の聖意さえ否定してクーデターを起こそうとした畑中健二少佐らの愛国心の狂気は、彼らにとっては絶対の正義(国体護持)であったが、玉音放送を阻止して軍政を敷くという『徹底抗戦の正義』が仮に実現していれば、大日本帝国は『米国の占領支配・体制転換・経済発展』という戦後の歴史に接続できなかったかもしれない。

天皇周辺で部隊を動かせる軍上層部の誰かがわずかでも『天皇の意志・政府の決定』に反旗を翻して、畑中少佐たちの愛国思想の狂気に協力していれば、日本国のポツダム宣言受諾が遅れて、『追加的な原爆投下・ソ連の北海道以南への進行』という非常に危険な事態を招いた恐れさえある。

北方領土問題の解決さえ現在の日本は覚束無いが、本土決戦を行って無条件降伏の日にちが一週間でも遅れていれば、8月末に北方領土を実効支配していたソ連軍は間違いなく北海道まで進出していただろうから、沖縄県の本土復帰以上にソ連を交渉相手とする北海道の本土復帰は困難な道のりになっていただろう。

畑中少佐らの企てた宮城事件は陸軍内部の決起に期待していたが、近衛師団の森赳師団長は協力を拒否して射殺され、東部方面軍の田中静壱司令官は『天皇・政府の命令』に従って降伏に同意、この期に及んでクーデターを呼びかける畑中らを賊軍と見なし即座に鎮圧に当たったため、宮城事件は宮城の一時的占拠以上の歴史的インパクトを持つことはなかった。

阿南惟幾はポツダム宣言受諾の8月15日朝に切腹して自害、田中静壱もまた8月24日に拳銃自殺をしているが、天皇の終戦の意志表示である『聖断』と合わせ、戦争末期には内閣・陸軍の上層にいた阿南・田中・森の陸軍司令官の現実認識・指揮命令系統の遵守(強硬派の阿南は東条よりは忠節な天皇主義者でもあった)に救われた部分も少なからずあった。

一方、拳銃自殺に失敗して巣鴨でA級戦犯として処刑されることになる東条英機は、ポツダム宣言受諾が迫る前日にも『玉砕覚悟の徹底抗戦』を天皇に具申してその意見を『もうよい』とあっさり退けられるなど、天皇の意志を汲まない何とも救えないエピソードを最後に残したりもしている。

Huluのご紹介

スポンサーリンク