第二次安倍政権の経済政策(金融緩和+公共事業)と外交・安全保障政策(国家観)の1年間をどう評価するか:2

東日本大震災・大型台風直撃のような大災害、『中国脅威論・嫌韓論・北朝鮮暴発論・離島防衛(離島奪還)』などの軍事的リスク(ナショナリティの対立喚起)が、安倍首相やその周辺で同意する政治家・政党が目指す『有事の特別視と防衛力(実働部隊)の強化・有事における国民統制や軍事攻撃(敵基地攻撃)の正当性』の根拠として扱われやすくなっている時勢もある。

第二次安倍政権の経済政策(金融緩和+公共事業)と外交・安全保障政策(国家観)の1年間をどう評価するか:1

個人の尊厳原理や言論・表現・結社の自由を“公共概念”の恣意的拡張で脅かしかねない『自民党改憲草案』の構造的問題は『特定秘密保護法』とパラレルなものであるが、“何が秘密(公共・公益)とされるか分からない”という状況は権力や体制にとってはフリーハンドの権限強化(政府・官僚をそれほど信用していない国民にとっては規制や摘発の可能性が上がる不安だが)となる旨みもある。

経済情勢の悪化に伴う消費文明社会の停滞、雇用形態の格差・失業などに伴う企業コミュニティの崩壊、家族親族の規模や地域社会の縮小、経済大国としての日本のプレゼンスの後退(グローバル競争の熾烈化によるシェア縮小)などが、『中間的共同体・個人的活動領域の喪失』を生み、日本人の国家への帰属心やナショナリズムの高揚の背景要因になっている。

安倍政権の国家観や安全保障は、『孤立化・不安化する国民の心情(家庭・労働・交友・恋愛などの日常生活圏での安心安全や生きがい・楽しみを感じにくくなった国民)』にもう一度『幻想共同体としての国家の価値・必要(民族や国家を大家族に擬制した上でみんなが一緒に運命を共にするという国体観念)』を吹き込んで再生しようとしているとも言える。

だが、自民党改憲草案や戦後レジームの脱却の本質的な問題点は『単純な多数決原理=民主主義』という誤認の元に、『自由主義・立憲主義による多数派や政治権力からの個人の擁護』の視点を意図的に欠落させていることであり、自由民主党という党名の趣旨からも逸脱してしまっている。

『有事(非常事態)・秘密・公益国益・公共(公の秩序)・人の観念変更(集団への忠誠が強くて多数に調和する人)・国防軍による積極的平和主義・日米同盟の普遍化』など自民党が戦後レジーム脱却のために打ち出している政治力学的作用を持つコンセプトは、必然的に大きな権力・公共や多数派の圧力の前に服従するしかない集団と一体化した国民の育成と国体観念の復古に結びつきやすい。

こういった情緒的・価値判断的な土壌は、専制主義や身分制社会との相性の良さはあるが、後期近代の到達しようとする“自律的・倫理的・理性的な個人(自由の使用方法を判断できる個人)”から何段階もの後退を強いられるだけではなく、過去の歴史で繰り返しファシズムや軍政の悪夢を生んだ『国益や法律を根拠とした反倫理的な集団の指示命令(個人の権利侵害・弱者の差別待遇)をメカニカルに遂行する官僚主義及び規範主義の硬直した精神性』に行き着く恐れがある。

積極的平和主義や集団的自衛権は現状の日米同盟・地位協定のままではどうしても、『アメリカへの追従外交・アメリカの対外政策への同調路線(アメリカの財政負担・人的負担の肩代わり)』に行き着く可能性が高くなり、防衛力を強化したから日本が独立国としての判断の範囲を広められるとか、財政負担や人的被害(軍事にまつわる一般国民の不安)が少なくなるとかいう結果にはなりそうにないように思える。

積極的平和主義を『国際貢献機会の増大・国際社会の抱える問題解決の支援』と捉えるのであれば、必ずしも憲法改正や軍事力強化は必要ないわけで、アメリカからの日米同盟に絡む負担の大きな要請(対外軍事活動の双務性の強化)を断ったり、中国からの日本の軍国主義化を明確に否定する材料として、現行憲法の基本原理を意図的に強く主張して国際社会の公論での言及頻度を高めて啓蒙を図るべきだろう。

右派が時に護憲派を『日本の安全保障の手足を縛るだけでなく、中国に憲法9条を作るように訴えかけてみろ』と挑発することもあるが、これは文字通り、自国から軍事的圧力をかけているわけではない(外国勢力からの領土侵犯の不安がある)とエクスキューズする中国に対して、そうであるならば『中国も9条のような専守防衛路線を明確化し、日本はじめ諸外国との相互不可侵を国際的に宣言した上で、国際社会や公海での共同安全保障(持ち回りのパトロール体制・国家同士が自国だけのために軍事力を行使しないようにする指揮命令系統の混成)の構築に協力して欲しい』というような各国の軍事力の脅威を原理的になくしてしまう交渉を執拗に行うべきだろう。

端的に現代における安全保障の最大の問題点は、北朝鮮の恫喝外交が典型的であるように、『明らかに間違っていること・理屈の通らないこと』を軍事力や脅しでごり押ししてどうにかしようとすること(まともな話し合いでは負けるからといって対話を拒絶して急に暴力で脅し始めること)にある。

そう考えると、『言葉による交渉や契約、理屈を尊重する国際的な原理原則』を浸透させ、その原則をきちんと政府や代表者が守っているかどうかを各国の国民がチェックできる体制を築かない限りは、安全保障は『終わりのない脅し合い(俺たちのほうが強いぞ、言う事を聞かなければ殺すぞ、正しいか間違っているかなど知るか、みんなでとにかく団結して土地を囲って敵を打ち倒すぞの原始的な権力争い)』以上のものにはならないだろう。

都合が悪ければ議論(対話)を放棄してだんまりを決め込むかごり押しすればいい、逆切れの暴力で脅して話し合いをめちゃくちゃにすればいい、自国(厳密には支配者階層)の利益のためであれば殺人でも嘘でも弾圧でも何でもやっていい、国民を一つの方向に束ねて外国に激昂・高揚させることで争いに勝てばいい(内政・内輪での不満をそらせばいい)というような価値観は、人類や人間集団、国家にとって本性本能とでもいうくらいに頑強なものだし、経済力の弱い独裁国家ではそもそも人民があまりに貧しかったり無知・無力であったりして自律的な判断主体として機能することができない。

だが、個人レベルではそういった二元論・対立フレームの価値観から離れている人が少なからずいるということは、『終わりなき安全保障の脅し合い・押さえつけ合い』を抜け出そうとする際の明るい材料ではあるのかもしれない。殺害や弾圧の恐怖による支配構造は、人間の動物としての本能(少ない資源の配分の決め方)にダイレクトに訴えかける強力なものだが、近代以降の歴史から多くの人は『殺し合い・脅し合い・奪い合いの力のロジック(物理的な集団闘争の利害配分)』を否定する倫理観や理性を身に付け、物理的な有無さん言わせぬ暴力(脅し上げ捩じり伏せて言うことを聞かせる)による解決はやくざ的なものという忌避されるようになった。

冷静に考えれば、個人が戦闘や殺人、武装から遠ざかる一方である現代では、『国家間の抑止力・軍事費や近代兵器のバランス』というのは極めて抽象的かつ観念的なものであって、その前提を置けば『一部の権力者・政治家・軍人』たちが勝手に軍事力の強弱を競い合っているだけで、実際の兵器などは国民の目にも殆ど見えないし、それらを使いたいとも思わなくなっている。

軍事予算を自国が5兆円使っていて、外国が10兆円使っていたら、パワーバランスが崩れて不安などという考え方は観念的であり、どの国でも大多数の国民は軍事専門家でも兵士でもなく別に戦争をしたがっているわけでもない以上、『少数の権力者や政財界の意図・教育やマスメディアの誘導』によって軍備増強や軍事リスク、戦争、憎悪・対立が煽られている構造は冷静に考えれば荒唐無稽かつ有害無益なものでもある。

『専門の戦士階級・戦争機械(生産機械)の国家・略奪経済・運命共同体のレジテマシー』が消滅した現代では、大多数の国民は非当事者として情報や空気、イメージによって場合(ニュースや情報の与えられ方)によって好戦的になることもあるという以上のものではないが、世界全体で見た場合に『封建的な身分・独裁的な政治・宗教的な教条・旧弊的な慣習や価値観』にどうしようもなく縛り付けられることで『暴力・差別・脅し・略奪』を是認する人々も多くいるという現実に、どう理性的・倫理的に対処できるかが日本の安全保障に問われている。