映画『寄生獣』の感想

総合評価 85点/100点

原作のアニメ版とストーリーの展開はほぼ同じだが、ミギーに右腕に寄生された主人公の泉新一の家族構成が、映画版では母親が一人で子育てしてきた母子家庭に変更されている。母親がパラサイト(寄生生物)に脳を乗っ取られて、新一が最愛の母親と戦うことになり、寄生した頭部を切り離すという物語のあらすじも共通であるが、原作では旅先で妻をパラサイトに殺された新一の父親がショックで廃人のようになっている。

“パラサイト”という透明な蛇のような形をした小さな寄生生物が海から上陸してきて、次々と人間の脳へと寄生し身体と人格を完全にのっとってしまう。泉新一(
染谷将太)はたまたま音楽をイヤホンで聴いていたので、パラサイトが耳の穴から脳にまで侵入できず、掌に突き刺さるようにして侵入してそこで幼形が成熟してしまった。

成熟したパラサイトは脳に寄生する初期の能力を喪失してしまうので、新一に寄生したパラサイトは右腕部分を変形させるだけの支配力しか発揮できなかった。“ミギー”と名付けられた不気味な寄生生物は、新一と会話を交わす友人のような不思議な関係を築いていき、同種のパラサイトの接近を感じ取る能力を使って、宿主の新一を殺そうとするパラサイトを倒していく。

パラサイトは『人肉』を主食とする『自己保存の本能』のみに従う生物で、普段は人間の姿に擬態していて人と見分けがつかないが、その本体は複数の目を持ち自在に肉塊を変形させることができる。寄生されている人間の顔面がバラバラに捲れ上がっていったり、花のように開いて内部のグロテスクな肉が露出することによって本体が姿を現す。『寄生獣』のCGを駆使した特殊映像技術(VFX)のクオリティは高く、それほど作り物めいた違和感なく寄生生物を見ることができる。

パラサイトは自らの肉を瞬時に鋭い刃物に変形させて超高速で動かせることから、一般的な人間の運動能力では対抗することはできない、パラサイトが作る鋭い刃物は鋼鉄をも切断するほどの脅威的な威力を持ち、人体がその刃物に切られれば容易に切断されたり貫かれてしまい絶命する。殴ったり蹴ったりする人間の殴打による攻撃はすべて無効であり、拳銃を持っていても急所の心臓に命中させなければ死なない。

ミギーは宿主の新一が死ねば、自分も栄養を摂取できなくなって死ぬことから新一に味方している。ミギーはパラサイトの持つ『驚異的な学習能力』によって、短期間で人間社会や世界・自然・動物・機械などに関するあらゆる情報と知識を学習していく。人間の心理や感情を受け容れることまではしないが、ミギーなりに人間の感情・理屈やパラサイトの存在意義を分析するようになっていく。

人間は牛・豚・鶏・魚などあらゆる他の種の動物を殺して捕食しているが、われわれパラサイトは人間ただ一種しか殺して捕食しないのだからより慎ましいではないか、悪魔だと言われて色々な情報を調べてみたが現状でもっとも悪魔的なのは人間という結論に達したという、ミギーと新一との『パラサイトの残酷さや悪魔性を巡る問答』などはなかなか面白い。

『寄生獣』の根底には、人類を地球の寄生生物や害毒(環境の破壊・汚染)を撒き散らす厄介者のように見なすガイア思想のような世界観があり、進化と学習を続けるパラサイトの目線を通して、『人間の存在意義・正当性』と『パラサイトの存在意義・正当性』がぶつかり合うような構図が上手く演出されている。

人間には他の動物にはない高度な知性・自意識・技術があるから、人間の生命は不可侵の権利として特別に守られなければならない(人間は他の動物とは異なる特権的な動物なのだ)という人間原理主義の主張を確かなものとして支えているのは、『人間の他種の動物に対する実力(暴力)の優位性』であり、仮に牛・豚・鶏が人間の思い通りにならない知性や暴力、技術力を備えていれば『人間だけに都合が良くて有利なロジック』を受け容れることはないだろう。

人間を遥かに凌ぐ純粋な知性と学習能力を備えるミギーは、そういった人間原理主義の欺瞞を見透かして、『いろいろと人間だけは正しいと理屈を捏ねているが、結局は自然の摂理や弱肉強食の言い換えでしかない(客観的に見れば牛・豚は人間に勝てないから食べられているだけで、もし勝てたら間違いなく食べられていない)』と反論してくる。

今までは運良く人間よりも賢くて強い生物が現れなかったので、人間を何よりも優先すべき価値の中心においた倫理なり権利なりを強制的(自己完結的)に通用させることができたが、われわれパラサイトという新たな賢明で強力な種(人類のライバル)が現れたのだから、人間と同じ理屈で考えても『パラサイトに勝てないから人間が食べられる』というのは別におかしくはないだろうという。食物連鎖・価値規範の強制力を説明するロジックとしては確かに筋が通っていて成り立つが、自分が人間である食べられたくはない新一は『価値観が違いすぎるよ』と頭を抱え込む。

パラサイトのような人間にとっての残酷な化物(捕食者)は、他の動物に人間に近しい自意識と恐怖心が仮に備わっているとしたら、人間こそが他の動物にとっての残酷な化物(捕食者)になっているという『鏡像』の機能を物語の中で果たしてもいる。

『寄生獣』の物語の展開やパラサイトとの会話の内容では、残酷で心がない化物として罵られるパラサイトが、人間だってお互い様の化物(地球の寄生生物・他種の捕食者)ではないかと言い返すシニカルなやり取りが多く見られる。

高度な学習能力を持つパラサイトの一部は、人間に寄生することでしか自己の生存を維持できず、自分と同じ姿をした個体を再生産する『生殖能力』がないことについて内省を深めるようになる。

初期の存在意義であった『捕食による自己保存』のためだけの生に満足できない個体が増え始め、特に『実験主義の精神』に富んだ高度な知性と自省を備えたパラサイトの田宮良子(深津絵里)は、パラサイト同士で性交をして妊娠してみたところ、『パラサイトの姿をした子供』を妊娠することは不可能という事実に行き当たった。

パラサイトには遺伝子や配偶子がないため、のっとった人間の身体を使って性行為をしても、妊娠出産する子供は普通の人間である可能性が極めて高いのだという、ならば一時的に人体に寄生している“私”とは一体何者であり、何のために生まれてきたのかという疑問に田宮良子は襲われる。母胎に宿った胎児に対して、パラサイトにはないはずの自分以外の個体の生命に対するこだわりの感情の萌芽も感じられるようになる。

私たちはいったい何のためにこの地球に生み出されたのか、ただ人間を貪り食って生き永らえるだけの生き方は虚しいのではないかという自己言及的な存在意義の追求は、パラサイトの動物的本能というよりは人間的な実存主義の自己探求心に近いものでもあるが、一部のパラサイトが人類の国家・社会の指導的立場に就くような動き(政治家への立候補・当選)を見せてきた。

映画の冒頭では、トマス・ロバート・マルサスの人口論をなぞるような深津絵里のナレーションで、『地球上の人間の数が余りに多すぎること』や『(人類に限定しない)みんなの命を守らなければならない使命感』について語られ、地球全体の生命と環境の命運を管理してコントロールするかのような壮大なパラサイトのロジックによるビジョンが開示されている。

映画内でも田宮良子が『人間の数が100分の1になったら垂れ流される毒も100分の1になるのだろうか』という冒頭のナレーションを再びつぶやき、それに対して北村一輝が演じる『過剰人口の削減・住みやすい環境への浄化』をマニフェストに掲げた政治家のパラサイトが『当然そうなりますよ』と笑顔で答える。

この映画版の『寄生獣』は、田宮良子が連れてきたA(新一の母親の身体をのっとったパラサイト)と島田秀雄との戦いがアクションシーンの佳境になっている。原作同様に、ミギーの細胞が心臓から混入して次第にパラサイトと戦えるほどに超人化(感情鈍麻)していく泉新一と、そんな新一の変化に気づいて戸惑う村野里美(橋本愛)との恋愛的なストーリーもある。

来春4月に『寄生獣 完結編(第二作)』が公開されるようなので、どういった方向とテーマで物語を進行させていくのか楽しみだ。映像表現はグロテスクで残酷な場面も多いので小さな子供には不向きだとは思うが(ストーリーそのものはホラーではないし会話のやり取りはコミカルだったりもするが)、原作が漫画であるということもあり、ただ流れを追って見ているだけで楽しめるエンターテイメント性の高い作品でもある。