映画『フューリー』の感想2:戦時下の純愛的な男女関係の幻影・十字路の死守

外国に占領された国・地域の、占領軍の男性(軍人)と占領地の女性との関係というのはいつの時代も似たような構造を持つが、ナチスドイツや大日本帝国の将校・幹部たちも占領した土地の女性を、形式的には合意の上で『愛人・現地妻』のようにして囲い込むことが多かった。

映画『フューリー』の感想1:戦争の現実に適応するために変容するノーマンの人格

ノーマンとエマの関係はそういった戦勝者の庇護による愛人関係・現地妻とは違うように見えるが、エマとノーマンの二人の関係ができあがる前には、占領したばかりのアメリカ兵に媚態を振りまくドイツ人女性とその女の腰を抱き寄せて「心配するな安心しろ。俺が守ってやるからな。こっちに来いよ」とボディガード気取りで語りかけて戦車内の密室に消える米兵が前置きのようにして描かれる。

あるいは、勝者である俺たちは食糧やカネなら持っているぞ(敗れて奪われ殺されたドイツ人の男たちはもうお前らを守れないし食糧もカネも持っていない)という羽振りの良さをアピールして女をベッドに誘う兵隊の姿がある。

露骨な力の原理と男女の性の悲哀(近代中期までの歴史的な女性の庇護・扶養の観念と女性を巡る男性のマッシブな競争原理)が、ノーマンとエマの出会いと結びつきではかろうじて上品に目隠しされているのだが、コリアーの無頼を気取った部下たちがその目隠しを力づくではぎとりにやってくるのだ。

現代の先進国のような男女同権や男女平等(暴力をある程度回避できる女性の権利)とは程遠いのが、戦時中の国家であり時代であるが、その基本的な原型は良く言えば『適材適所の役割分担』、悪く言えば『各種の力の差に基づく男性社会(男尊女卑)』でもあった。

戦争で勝者と敗者が分かれる時、『男が女を経済的に養い暴力から守って、女が男に尽くして愛(性・世話)を捧げる』という戦時中(戦後もだが)に望ましいとされたジェンダー(男女の性別役割分担)は、視点を変えれば女性や権力を求める男同士の競争のマッチポンプ(自分たちが引き起こしている暴力や男性社会の格差・貧困から女性を守るという意味でのマッチポンプ)でもある。

戦中のジェンダー(男女の性別役割分担)が、『勝者の軍人(男性)の力と豊かさによる庇護・保証』と『敗者の女性の安全・生活・子供を守らなければいけないという恐怖感・不安感』とを自然な恋愛感情(強くて頼れる男+弱々しくて放っておけない女の元型)のように錯覚させて結びつけてしまいやすいのは必然でもあるだろう。

戦争の占領期間に生じ得る、戦勝国の軍人の愛人や現地妻、売春はその意味では暴力で無理やり強制されたというよりは(そういった完全な強制のケースもないわけではないにせよ)、守りたい男性と守られたい女性とが『戦争・占領による暴力的な強制力の背景』を、プライベートな関係(戦争で侵略はされたが自分には優しくしてくれて面倒を見てくれる程度に羽振りも良い男の態度)の中で暫時的に忘れてしまったロマンスと必要の関係としての側面が強いだろう。

変則的な『ストックホルム症候群』のような同情・共感でもあるが、戦争の極限状況においてそれぞれ自分が求めているもの(男性側の食糧・安全・お金であったり女性側の優しさ・性愛・家庭的空気であったり)を相手が与えてくれることを想像すれば、男女関係においては殺し合っている男同士の関係をすっ飛ばして、砂上の楼閣や空虚な幻影であっても『敵兵との暫時的なロマンス・惚れ込み』に落ちる可能性は少なからずある。

『フューリー』では、ノーマンとエマの恋愛の幻影性を暴露する仕組みとして、グレイディ・”クーンアス”・トラビス(ジョン・バーンサル)ら4人の部下の、『上品・清潔で文化的な4人の食事(コリアー,ノーマン,イルマ,エマの戦争を忘れさせるような楽しい食事)』への下品さや猥雑さを丸出しにした乱入がある。

お前もやることはきっちりやってるようだなとノーマンを散々からかってから、次は俺たちにエマを抱かせてくれと詰め寄り、暴力的な態度・物言いでイルマとエマを怖がらせる。米兵に対して生じかけていたイルマとエマの親近感・信頼感が、トラビスらの無法者を気取った無茶苦茶な言動で一瞬で吹き飛ばされてしまい、明るく穏やかな食事の空気がぶち壊しになる。

『俺たちみたいな下品な奴らが来ちゃあ迷惑だったか・お前たちだけで卵料理を食うつもりだったのか』と、コリアーとノーマンに自分たちを除け者にした不満・嫉妬をぶちまけながら、食事の場面にふさわしくない戦場のグロテスクな馬の腐乱死体の話をしたり、食べ物に唾を飛ばしたりエマの目玉焼きを舐めて渡す嫌がらせ(コリアーが自分の目玉焼きを交換してあげるが)をしたりする。

エマに対する猥雑な発言に激昂するノーマンは、エマのことを本当に好きになったと語るが、トラビスはノーマンを小突いてからかいながら、「お前、言葉も通じないこの女と結婚でもするつもりか」と呆れた物言いで小馬鹿にして、「のぼせてるだけだ。次の町に行けば、また違ったいい女がいる(戦場に純愛などない)」といってエマの連絡先を何とか聞こうとしているノーマンを強引に連れ出した。

ここでは、『戦時下のお互いの気持ちだけでつながった純愛の外観』と『戦時下の暴力による力関係の差を背景とするストックホルム症候群的な心情(間接的な庇護・保証と慰め・性愛の交換条件)』との構造的な類似性が暗黙的に指摘されているようにも感じる。

部屋を出て少しの後、ナチスからの砲撃がさっきまでいた建物を直撃して、さっきまで食事を共にして純粋な思いを寄せて将来を誓おうとしていたはずのエマは、一瞬にして物言わぬ骸と化した……。

エマに取りすがって泣き叫ぶノーマンに、トラビスらはお前はまだこの死んだ女と結婚するつもりなのかと引き離すが、数々の戦線で生死を共にしてきたトラビスらも真の悪人・嫌な奴であるはずはなく、そこには『戦場の現実・錯覚』を経験し尽くしてきた故のノーマンへの思いやりもあった。終盤では、ノーマンとトラビスがお互いの本質を分かり合っていると感じさせるような和解じみた会話の場面も挿入されている。

部下の生命を守ることを第一にした判断を下してきたウォーダディのコリアーだが、最後の最後で『ベルリンにつながる十字路の戦略的要地』を300名規模の武装SS大隊に対してフューリーで死守するという決断を下す。地雷を踏んでフューリーのキャタピラが壊れたために身動きが取れず、十字路のど真ん中で停止した状態で、重武装したナチスの精鋭部隊とやり合うことになるが、コリアーは部下たちに自分はここに残るが逃げたければ逃げても良いと命令する。

最後の決戦は、ド派手な火力がぶつかり合うアクションに重点を置きすぎてやや蛇足めいた長さにもなっているが、わずかな少人数の部隊で大人数の敵に決死の覚悟で立ち向かうというのは、戦闘状況の悲劇的な物語性(運命的な結末)に引きずり込むお約束の展開ではある。