映画『フューリー』の感想1:戦争の現実に適応するために変容するノーマンの人格

総合評価 91点/100点

ブラッド・ピットやレオナルド・ディカプリオなど、若い頃に端正な容貌でアイドル的な人気を得ていた俳優が、30代後半以降になってから深い人間性を問うテーマや歴史的社会的な問題意識を感じさせる良質で重厚な作品に恵まれ始めた。

第二次世界大戦のナチスドイツとの熾烈な市街戦を題材にした『フューリー』も、戦争もののハリウッド映画の中では出色の出来栄えではないかと思う。

戦闘に参加する意思・覚悟がないままに前線に送られてきた18歳の新兵ノーマン・エリソン(ローガン・ラーマン)の急速な人格の変容を描くことで、自ら人間性と良心を破壊して捨てざるを得ない戦争の倫理的問題が、“生々しい現実への適応(生きるか死ぬかの選択)”として示される。

戦争の前線が人間の心理と行動をどのように変えるか、敵と戦う軍隊とはどのような組織なのか、人を殺せなかった良心的で信仰心の強い臆病な人間がなぜ大量の死体を容赦なく作れるようになるのか、下品で粗野な人間性(獣じみた暴力と性の欲望)を表層に出さずにはいられない戦争の狂気とは何なのか、戦争と人間性の喪失・心理変容を巡るテーマが『フューリー』の全編にわたって通奏低音として流れる。

戦争の倫理的・人道的な脅威だけではなく、ナチスのタイガー戦車(最後の一台として実在するティガー131をレストアして撮影に使用)との戦闘場面もかなり迫力があって面白い。

フューリーをはじめとするアメリカのシャーマン戦車(M4中戦車)は、主砲の火力と装甲の強度、機動性・旋回性のすべてにおいて、ナチスのタイガー戦車より性能が劣っており、米軍は4台でタイガー戦車に立ち向かうがあっけなく2台が破壊される。コリアーが指揮するフューリーは、巨体のタイガー戦車を左右に揺さぶるトリッキーな動きの操縦と装甲の強度が弱いポイントに集中砲撃する作戦で立ち向かうが、戦争のアクション映画としても楽しめる要素が多く散りばめられている。

戦車フューリーに常に一緒に乗り込んで役割分担しながら戦う、軍曹ドン・コリアー(ブラッド・ピット)が率いる5人の部下は、死生を共にする他ない『運命共同体の戦友』である。歴戦の勇士であるドン・コリアーの戦車部隊は、第二次世界大戦の熾烈な北アフリカ戦線を生き延び、イタリア戦線でも軍功を上げたが、長年タッグを組んで戦ってきた副操縦手は、戦車の装甲を突き破ってきた銃弾に頭を貫かれて戦死した。

死んだ副操縦手の代替要員として派遣されてきたのが、事務作業のタイピストとして後方支援をする契約で入隊した18歳のノーマン・エリソンである。戦車に乗り込んで前線で戦うという任務を聞き、「そんな話は聞いていない・戦闘訓練もしたことがない自分にできるはずがない」と何とか辞退しようとするが半ば無理やりに押し込められる。

適当に言われた作業だけを淡々とこなしてやり過ごそうとするノーマンだったが、ノーマンに割り振られた副操縦士の仕事は戦車内の狭い覗き窓からの『警戒・索敵・監視』と『重火器による敵の射撃』であり、自分の射撃で人を殺さずに最低限の仕事しかしないという生半可な意識で務まるものではなかった。

連合軍はノルマンディー上陸作戦には成功したものの、ヒトラーや親衛隊SSが立てこもる首都ベルリンまでの防御網は依然固く、爆撃機による空爆の助けを借りながら前進しても、コリアーらの陸上部隊は相当の犠牲(仲間の死)を覚悟しなければならなかった。

フューリー(Fury)とは『怒り・憤激』であり、ローマ神話の復讐の女神フリアエ(Furiae)から転じた言葉である。ドン・コリアーは戦友の生命を守りきる父親のような任務・責任を遂行してきたことから“ウォーダディー”という渾名を持つが、平時は温厚かつ知的で礼儀正しいコリアーを戦場において『殺戮の鬼神』に変える動力がこのフューリー(怒り)である。

長い戦争を通してナチスドイツから数え切れないほどの戦友や仲間、知人を殺されてきたコリアーは、ナチスの軍隊(表面的な命乞い)にかける僅かな情けや温情が自分・戦友の生命を即座に危険に晒すことを学び、ナチスの幹部や親衛隊SSに対してはどんなに恭順で無抵抗の服従の意思を見せようとも、その場で確実に処刑することで戦友を守り続けてきた。

同じ戦車隊に属する他の部隊がどんどん苛烈な戦闘で死んでいく中、ウォーダディーのコリアーが率いる部隊だけはここまで何とか無事に生き残ってきた。

コリアーの部下であるボイド・”バイブル”・スワン(シャイア・ラブーフ)、トリニ・”ゴルド”・ガルシア(マイケル・ペーニャ)、グレイディ・”クーンアス”・トラビス(ジョン・バーンサル)、”オールドマン”・ワゴナー大尉(ジェイソン・アイザックス)は、普段はおどけたりふざけたりしているが、自分たちの生命を救う正確かつ冷徹な判断を間違わずに行い続けてきた指揮官のコリアーに、絶対的な信頼と好意を抱いており、『ドンに従っている限りは俺たちは戦争で死なずに生きて帰れる』というジンクスめいた信念を持っている。

信仰心と良心から人を殺せないという臆病なノーマン・”マシン”・エリソン(ローガン・ラーマン)は、戦車で縦列行軍中に森林の中に“武装したヒトラー・ユーゲントの少年の姿”を目視したにも関わらず、まだあどけなさの残る少年だから殺すに忍びないということで、銃撃を躊躇って見なかったことにしようとしてしまう。次の瞬間、ヒトラー・ユーゲントの一団の手榴弾の投擲と機関銃の連射を受けて、前方の戦車は炎上し米兵の乗員が全身火だるまになって転げ出てくる、燃え上がった米兵は苦しむ前に自らの頭を拳銃で打ち抜き自殺した。

ヒトラー・ユーゲントの少年たちを機銃掃射で全滅させたコリアーは、怒髪天を衝く激怒の形相で、ノーマンを引きずり倒して怒鳴りつける。「なぜすぐに撃たなかった。ナチスであれば子供だろうと女だろうとたとえ赤ん坊であろうと、見つけ次第とにかく殺すのがお前の仕事だ。あの燃えた仲間は今お前が殺したんだ」とノーマンを厳しく責め立てて、戦場のルールに従って人間性を捨てろ(そうしなければ自分も仲間も死ぬことになる)と迫る。

ノーマンに人殺しの耐性をつけるために、助けてくれと命乞いをする無抵抗なナチスの捕虜を銃殺する命令を通過儀礼のようにして出す。ノーマンはコリアーにボコボコ殴られながらも「自分にはやはりできません・許してください」と泣きながら固辞し、やらなければお前を殺すと脅迫するコリアーに対して、「だったら自分を殺してください」とまで言う。

だが、無理やりに拳銃を握らされたノーマンは、コリアーが上から引き金を押さえつける形で、恐怖に怯える無抵抗な捕虜を背中から射殺することになる。ナチスの制服をまとった男を射殺した瞬間、周囲から米兵の笑いやからかいの奇声がどっと湧き上がる。イラクのアブグレイブ刑務所やキューバのグアンタナモ収容所における米兵によるテロリスト(真偽が明らかではないテロ容疑者)の虐待事件の心理的なありようをどこか彷彿させる場面でもある。

今まで大勢の戦友を殺害して今でも自分たちを恐れさせている敵(ナチス)の処刑・虐待は、ある種の娯楽・慰めとして機能している。自分たち同胞の生命が各戦線でゴミ屑のように蹴散らされてきた反動として、敵の生命もゴミや物のように扱って抹殺することが、『怒り・憎悪の戦意(やらなければやられるの極限の緊張・人殺しを躊躇わない意思)』を支えているのだ。

『フューリー』を、戦争の倫理や人間性のゆらぎを描いた心理劇として鑑賞する場合の見所は、制圧したドイツの小さな町の民家にいたドイツ人女性のイルマとその従姉妹エマとの出会いと別れの場面だろう。

他のアメリカ兵が制圧した町で戦争の恐怖心や緊張感を忘れるために、半ば犯罪めいた民家への侵入・食糧の略奪と女性の買春・なし崩しの性行為を続けている中、コリアーとノーマンは侵入した民家にいたイルマとエマに対して節度と常識のある紳士的な対応を見せていた。

この時、コリアーは他の戦友たちの前ではあまり見せない他者を思いやるような穏やかで柔和な顔を、ノーマンと二人のドイツ人女性に対して見せるのだが、これは人を殺す精神的な重圧に押しつぶされそうなノーマンに、コリアーが準備してあげた『束の間の平時のような休息・温かく文化的な人間関係の場』でもあった。

兵士の突然の侵入に初めは怯えていたイルマとエマだが、乱暴さのないコリアーの落ち着いた対応と貴重品の卵の提供に気持ちを緩ませていく。コリアーはノーマンに気を利かせるかのように、「お前が行かないなら俺が初めにやらせてもらう」と挑発めいた台詞を吐き、若い美人のエマとノーマンが二人っきりになれる状況を作る。

清楚で教養もある感じの容姿端麗な美人のエマに見とれていたノーマン、軍人に似つかわしくなくピアノを流麗に弾いて優しい表情で笑いかけてくれるノーマンにほっと安堵したエマが、『戦時下の緊張・残虐・粗暴』からそこだけ隔離されたかのような二人きりの密室で結びつくのに時間は要さなかった。

無論、コリアーはこういった純愛(両思い)めいた外観の見せかけを持つ『戦場での男女関係』というものが、砂上の楼閣であり空虚な幻影でしかないことを痛いほどに知っていたはずだが、ノーマンに少しでも心が安らぐような思いをさせ、平時であれば望ましい人間性の片鱗を保てるような関係の体験をさせて上げたかったのだ。