映画『龍三と七人の子分たち』の感想

総合評価 81点/100点

切った張ったで縄張りを広げた武闘派のヤクザが街から姿を消して久しい。特攻の斬り込みを仕掛ける気性の激しさから“鬼の龍三”と恐れられた高橋龍三(藤竜也)も70歳となって随分と老いぼれている。往年の刺青を丸出しにしたランニングシャツ一枚の姿で近所をうろついたり、庭で木刀の素振りをしたりで、世間体が悪いと息子の自宅では厄介者扱いされている。

指定暴力団が警察の締め付けで弱体化する中、暴対法の網をくぐった元暴走族の半グレ集団・京浜連合が幅を効かせるようになり、高齢者を狙った特殊詐欺(振込み詐欺)や悪徳商法(押し売り・催眠商法)で荒稼ぎしている。ある日、息子一家が留守の時に、弁護士を名乗る男から息子さんが会社のカネを使い込んでしまったという特殊詐欺の電話が龍三にかかってきて、なけなしのお金を家からかき集めて龍三は待ち合わせ場所へと向かった。

金額が足りないといわれ、セールスマン風の若い詐欺師に、ドスで指を詰めてけじめをつけるから、ここにある分のカネで許してくれと凄む龍三。本当に指を切断しようとしている龍三の異常な気迫に押された詐欺師は逃げ出してカネを奪い損ねる。京浜連合のボスである西(安田顕)は、何度も自分たちの犯罪ビジネスを邪魔してくる老人集団に怒りを募らせ、遂に龍三と七人の子分で結成された『一龍会』と対決することになる。

『一龍会』は殺人・傷害の前科が多い荒くれ者の集団だが、龍三と義兄弟のマサ(近藤正臣)をはじめ既に全員が70代の高齢者になっており、かつての武闘派崩れの気力と殺傷の特技は残っているものの、手が振るえ続けている者、足腰が弱っている者も多い。

元ヤクザにも襲い来る高齢化社会の波、本職までいかない詐欺の金儲けがメインの半グレ・チンピラ集団の台頭を題材にしたパロディ映画。ビートたけしは相変わらず理屈を暴力でねじ伏せる型のヤクザものが好きだが、『龍三と七人の子分たち』は理不尽な暴力や冷酷な人間性といったヤクザものの作品ではなく、暴力と老いを絡めながら『老人と若者の質の異なる悪』がぶつかり合うジェネレーションギャップで笑いを取りにいっている。

過去に羽振りが良くて肩で風を切っていた龍三たちがカネも地位もない子供にも疎まれる貧乏なじじいになりながらも、敵対する組員を殺してきた(社会や堅気にも迷惑をかけてきた)自分たちの悪行三昧の前科を棚に上げ……不良集団の若者に『義理も人情もねぇ奴らだ世も末だ・社会的弱者のお年寄りをカモにしやがって』と失うものなしの強みからくる暴力で活を入れる、正義の味方づらして世直し紛いの抗争をするという“お前が言うな”のシニカルな図式になっている。

高齢に無法者故の『金無し・先無し・怖いモノなし』が映画のキャッチフレーズになっているが、警官役のビートたけしが『もう時代が変わってあんたたちみたいなヤクザいないから』というように徹頭徹尾、昔ながらの渡世人のカッコつけ(サラシを巻いたり仁義の啖呵を切ったりド派手なスーツを着たり)をしながらも現代の流儀や方法論からズレている様子が描かれる。

それでも主役の藤竜也や相方の近藤正臣は、カッコいい雰囲気を持った高齢者のチョイ悪なスタイルで決めていて、目力や洒脱な風貌に存在感はあるが、『昭和的な暴力の歴史の終焉(前時代的なカルチャーや生き方を担う者の老化・死)』を笑いの中で描いた作品といった見方もできる。

前科の多さで組長になっていた龍三に対して、エンディングでまさ(近藤正臣)が今回の出入りでは俺が一番功績を上げたんだから、出所したら今度は俺が組長に決まりだなみたいなことを言い、『その時はみんな死んでらぁ(誰が組長でももう意味なんかないだろ)』とあっけらかんと返すが、太く短くと言われた任侠道を掲げていた者でも、高齢化社会の中で生きながらえて介護を要するよぼよぼな状態(刑務所内でも受刑者同士で行う高齢者介護業務の急増が問題になっている)にならざるを得ない現実を照らし出す。

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