映画『ラッシュ プライドと友情』の感想

総合評価 91点/100点

1970年代半ばのF1には、イケメンで女好きなジェームズ・ハント(クリス・ヘムズワース)と職人気質で生真面目なニキ・ラウダ(ダニエル・ブリュール)という対照的な二人の天才ドライバーがいた。当時のF1マシーンでさえ270キロ超の時速を出して走ることができ、約20%の確率でF1ドライバーはレースで事故死する運命に常に晒されているという。

正常な神経とリスク判断では、0.01秒単位のわずかな操作ミスやメカニカルエラーであの世にいく異常なスピードで難易度の高いコースを走り抜くことはできない。冒頭で語られるように、F1の第一線で生死を賭けてトップを競り合うようなドライバーは多かれ少なかれまともな精神状態や人間性ではいられない。

狂気的なリスクテイカーか自分は特別な天才だと思い込める自信家、一般社会に適応できない変わり者、突き抜けた刺激と成功を追い求める野心家、それらの性格と合わせて何らかの手段でレースやマシンに必要な大金(スポンサー)を集められる者が、F1の上位層にまで上り詰めてくる。

容姿端麗で体格にも秀でたイギリス人のジェームズ・ハントは、裕福な生活をして好みの女を抱き、わいわい仲間と騒いで美味いモノを食べる、自分の持てる能力を出し切り人生を最大限に謳歌するために、F1の頂点を天性の才能と決死のリスクテイクで目指す。

F3のレースの合間に持ち前の短気さで喧嘩を起こし治療にいった先の病院で、セクシーな看護師を口説いてその場でおっ始める。トップモデルの妻と知り合って結婚するまでの意思決定も即断即決、鉄は熱いうちに打てでその場で決めてしまう。スポンサーが見つからずF1の世界から退場を迫られる状況では、酒に溺れて自暴自棄になる弱さも見せ、アルコールに逃げるハントを諌める妻を『中身が空っぽのお前に何が分かる』と罵倒して、妻はアメリカ有数の大富豪と浮気して離婚となる。

超高速で疾走するF1の世界の刺激や興奮そのものに魅了されて楽しんでいる部分もあるが、『楽しくなければ人生の意味がない』というスタンスに貫かれているため、レース前の精神的なプレッシャーには意外な脆さも見せる。人前では俺より速い人間はいないと豪語する自信満々のジェームズ・ハントだが、レース前には人の目を避けて、嘔吐や貧乏ゆすり、ジッポライターを鳴らす儀式的行動を繰り返している、極限にまで高まった緊張と興奮を自分でも抑えられずに持て余すのだ。

容姿や体格ではハントに劣るドイツ人のニキ・ラウダは、女にはモテないし親しい友達もおらず、皆でガヤガヤ騒ぐのも好きではないが、どんな時にも一時の感情や快楽に流されない冷静沈着な状況判断力と自制心を持っている。レース前の緊張状態もハントのようにあからさまな症状として現れることはなく、ニキ・ラウダにとっては自分が計算し練習して何度もそのコースをシミュレートしてきた結果を、本番のレースでミスをせずに再現するだけのことである。

ニキは、ジェームズ・ハントからその容姿をネズミに似ているとからかわれ、女や仲間に恵まれないこと(社交的になれず人生を楽しめていないこと)を揶揄されたりもするが、マイペースで自分のレーサーとしての地盤を固め、不特定多数の女にはモテないが、特定の最愛の妻との信頼関係を深めていく。自信満々の態度で軽いノリのジェームズ・ハントと抑制的な態度であまり騒がないニキ・ラウダは、水と油で性格も生き方も合わず、表面的には犬猿の仲のライバルとしてトップ争いを続けている。

普段は絶対に無茶なことをしないニキは、自分のファンだという男の車を運転する時にも、『一般道で飛ばすことに何の意味もない』として安全運転を貫いていたが、将来の妻になる女性から『外見も冴えないし前かがみの運転姿勢もそんなに凄いドライバーにとても見えない(私のために少し本気で走ってみせて)』と挑発され、公道では有り得ないほどの猛スピードで疾走してニキらしくない自己アピールをする。らしくない感情的な自己顕示が縁となって、その女性との交際が始まることになる。

ドイツを代表する金融界の名門一族に生まれたニキ・ラウダは、(一族からは絶縁状態にされるものの)融資でかき集めたカネの力に物を言わせてF3からF1の世界へと短期間で昇進していく。ニキはハントのように『人生の享楽・成功のため』にF1でトップを目指しているというより、『自分のレーサーとしての才能と実力・勝負師としての自分の存在価値』をストイックに立証するために冷静にレースに臨んでいる。

雨が降りしきって危険な路面状態となっている1976年のドイツGP、緻密に計算し尽くしたテクニカルな頭脳戦を好む王者ニキ・ラウダはハントに、『俺がレースで許容するリスクは20%までだ。それ以上のリスクは絶対に負わない』と語り、レース中止を訴える。

だが、二位で追いかけるジェームズ・ハントの挑発と扇動が効いたレース前の多数決に敗れて、ニキ・ラウダは乗り気ではない『雨天のドイツGP』に参加を余儀なくされる。ウェットタイヤの選択をミスしてスピードを出せずに焦るラウダは、タイヤ交換が終わると同時に急発進してハントを追走するが、車輪をつなぐシャフトの物理的故障が発生してクラッシュしマシンが炎上してしまう。

顔面と上半身に重度の火傷を負ったニキは、意識が戻ったとしても再起不能で引退するものと思われていたが、ニキは地獄のような激痛と絶望に襲われるリハビリを、『ジェームズ・ハントが活躍している自分のいないレース』を見ながら克服する。ラウダは痛々しい火傷の後遺症の残る顔を気にすることなく、再びペナントレースへの参加を表明する。

自分の強引なレース続行の主張によってラウダが取り返しのつかない怪我をしたと思い込むジェームズ・ハントは罪悪感に苦しんでいるが、ラウダはレースの結果は自己責任であることを受け止めており、ハントの存在があればこそもう一度F1の世界に戻ることができたと語る。

運命の最終決戦の舞台は、悲劇のドイツGPを思わせるような豪雨が降りしきる日本GP。ハントとラウダの因縁の対決の勝敗が決する重要なレースだが、ニキ・ラウダは前方の視界が閉ざされるような猛烈な雨を受けて走りながら、静かに意外な決断を下した。二人の性格やライフスタイルの対照性は、運命の勝負のわずか二年後にハントがあっけなくF1の世界を引退してメディア(キャスター業)に転向し、ラウダのほうは7年後までF1のトップ層で有り続けたというエピローグにも現れていて興味深い。

ジェームズ・ハントを演じるクリス・ヘムズワースとニキ・ラウダを演じるダニエル・ブリュールは、実際の本人たちの映像とも重なるような“はまり役”であり、ヘムズワースは『マイティ・ソー』くらいしか見たことがなかったが、現代・現実の舞台設定の中での演技のほうが見栄えがした。F1のエンジンサウンドが炸裂するレースシーン、雨天の荒れた路面状況での勝負や事故、判断など、映画館に向いた映像の多い作品でもあった。