法家の李斯(りし)・秦の始皇帝・宦官の趙高(ちょうこう)・暗愚の胡亥(こがい):権力と才知と阿諛・讒言

李斯(りし)は情状を関与させない『法律』によって厳格に賞罰を規定する『法治主義』を、秦の始皇帝が支配する絶対君主制の下で初めて実現した法家の英才だが、後世の人物評では始皇帝死後の変節・醜態、哀れな末路によって士としては余り評価されない人でもある。

李斯は楚の庶民・微賎の官吏から秦の宰相にまで上り詰めた立身出世の人でもあるが、若い頃に『便所にいるネズミ』と『穀倉の中にいるネズミ』を比較して、同じネズミであってもいる場所によって飽食か飢えるかの境遇に天地の開きがあるとして、人間の賢愚の区別・境遇の良否も『能力・才覚』以上に『環境・コネ』で規定されるとして、楚を離れ大国の秦に赴いたという。

李斯の原点は、大国の権力者に取り入ることによる貧困・卑賤からの上昇志向であり、そのためには軍事的・法的な手段を選ばないというリアリズムに強みがあった。歴史・地理・帝王学に明るく弁論術において、諸子百家の遊説家の中でも一段抜けた才覚の持ち主であった。秦王(後の始皇帝)に対して『古い周王室の権威など無視して諸侯の国の降伏も許さず、一気に武力で滅ぼして秦に併合すべき(息の根を止めなければ再び諸侯が連合して秦に抵抗してくる)』と進言して、始皇帝の全国統一への道筋をつけた。

破格の出世街道を驀進する李斯は、他の重臣や将軍からのやっかみや怨恨を受けて誹謗讒言もされるが、始皇帝の全国統一後にその身分は人臣最高の宰相に任じられ、『始皇帝と自分以外のすべての諸侯・重臣の実権』を法律によって剥奪しようとした。李斯は秦の全国統一を永続化させる計略として、日本の豊臣秀吉の刀狩りや徳川家康の改易・お家取り潰しのような政策を行って、秦内部の郡県の城壁をすべて破壊し軍隊を解散させ、刀剣を溶かして武器を大幅に削減した。

李斯は王族・功臣に大きな封土と権限を与えて忠誠を誓わせる『封建制度・諸侯制度』も否定して、天下のすべての土地と人民は皇帝一人に帰属し、皇帝の子弟・血族・重臣といえども一国の主に等しい諸侯のような地位につければ謀反の危険(皇帝の実権喪失の恐れ)が高まるとした。

李斯の封建制度廃止に反対する臣下からは、『古代の殷・周の王朝は恩義と領土を与えた王室尊重の子弟・功臣によって千年以上も存続した(忠誠を誓う諸侯は王室の守りとなる藩屏である)』との意見も出たが、始皇帝は李斯の提言を採用して自らの子弟・功臣にも諸侯封領を与えなかった。皇帝が子弟・功臣をも奴隷同然として粗略に扱い、恩義と忠誠心を軽んじたことは、秦王朝がわずか二代で虚しく崩壊する原因(亡国の危機にも誰も立ち上がる重臣・将軍がいない)にもなった。

法家の李斯は『法律による皇帝・宰相(自分)以外の徹底的な無力化・人民の無知化(反逆の糸口となる知の剥奪)』を図ろうとして、『焚書坑儒』を含むいわゆる愚民化政策を断行した人物としての悪名も高いが、その法治主義の動機が競合者をあらかじめ法で縛って排除するという相当に利己的なものでもあった。

李斯の法律による締め上げをかいくぐった勢力に去勢された皇帝側近の宦官(かんがん)があった。特に宦官の領袖である趙高(ちょうこう)は、始皇帝の次子である胡亥(こがい)の大傅(お守り)として幼少期から身近で世話を行っており、胡亥は宦官の趙高に絶対的な信頼と好意を寄せていた。

趙高は『平家物語』の祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり~の冒頭に登場する異朝(中国王朝)の代表的な逆臣であるが、胡亥の内心に深く入り込んで傀儡にすることによって、公的身分としては卑賤な宦官に過ぎないはずの趙高の言葉はいつしか『皇帝の言葉』へと変質していった。

始皇帝崩御の事実を最初に知ったことで、趙高は『始皇帝の後継者指名の遺書』を改ざんする機会を得て、皇帝以外のすべての権限を剥奪する法治主義を徹底した宰相・李斯に、『正当な太子である扶蘇(ふそ)が皇帝になれば(蒙恬将軍と比べて扶蘇と縁故の薄いあなたは)宰相の地位を追われ、わずかな領土・権限も与えられないか罰せられるだろう』という脅しをかけることができた。

李斯は才知に優れた人物であるが『貧苦からの出世・得てきたものの保身』で動機づけられてきたため、自分と十分なコネのない長子の扶蘇が二世皇帝になった時に、自分を宰相の地位に置いたままにしてくれるかの確信が持てず、扶蘇を幼い頃から育ててきて、秦の軍事活動・土木事業に大きな功績のある将軍・蒙恬(もうてん)に自分が追い落とされるか処罰されるのではないかという不安に駆られた。

皇帝権力の絶対性と主君と臣下の別の秩序を法で定めてきた李斯自身が、次期皇帝の扶蘇・蒙恬のコンビによって『人に下位の臣にさせられる屈辱と不安(始皇帝からは最大の信頼を得ていた宰相の自分といえども、よく知らない扶蘇に対しては蒙恬よりも影響力を振るえない)』にさらされたのである。

始皇帝は、子弟といえども優遇してはならないとする李斯の法治主義に従って、扶蘇を北方の遊牧民防衛の厳しい任務に当たらせて冷遇しているかのように見えたが、後継者は秩序を乱すことがないよう長子の扶蘇に決めており、中国統一の軍事に大きな功績のあった蒙恬の実力を買ってもいた。遺書を捏造した趙高は、不安に駆られた李斯の同意を取り付け、胡亥を二世皇帝とする密約を取り付け、始皇帝が書いたように見せかけて、扶蘇と蒙恬には北方辺境で軍備を蓄えていて謀反の疑いがある(匈奴征伐の功績もない)として自死を賜うとした。

歴戦の蒙恬は始皇帝の詔勅に奸臣による偽造の疑いがあるとして、扶蘇に自死を早まらないよう説得したが、儒家的な忠孝の徳に厚かった扶蘇は父・始皇帝にそこまで信頼されず疑われていた己を恥じて即座に自決してしまった。二世皇帝・胡亥のご機嫌取りに終始する趙高は、短い人生を快楽主義で憂いなく大いに楽しみたいという『胡亥のバカ殿化』を推し進め、遂に陛下にとって煩わしいだけの政治・聴政はすべて臣下の趙高が引き受けるとして、皇帝を臣下の誰とも直接話せないようにして、胡亥を立ち直らさせようとまともな諫言をする家臣は冤罪で処刑した。

宦官である趙高が実質の皇帝として振る舞うことになり、悪政で天下が大いに乱れると本当に皇帝の胡亥を殺害して自分が皇帝であると宣言するが、朝廷の誰も従うことはなく最期は逆賊として暗殺された。

阿房宮を造営して酒池肉林・無為徒食に耽る二世皇帝・胡亥に対し、さすがに李斯もこのままでは国運が傾く、皇帝を何とかまともにさせようと古代の聖王の事例を引いて諫言した。だが、暗愚な胡亥は激怒して『天下・人民のために粗末な生活をした堯、烈しい治水・土木の労働に明け暮れた禹などは賢者ではなく奴隷的な愚者に過ぎない。賢者の皇帝は私欲と安楽をほしいままにしてなお天下が安らかに治まるもの、天下や人民に奉仕する奴隷的存在ではない』という法家・韓非子(かんぴし)に依拠した天下統治・身分秩序の持論を展開し、機嫌を損ねる李斯の罪責を問うて処罰しようとした。

保身家である李斯は、二世皇帝にまともな諫言が通用しないと見ると、途端に阿諛追従のこびらいをし始めて、更に弁論術で『胡亥賞賛』を徹底してしまう。李斯は法家の原点は『君主の督責の術』にあるとして、絶対君主は法に監督されず処罰されない特別な立場であり、君主は法を使って臣下や人民を監督して処罰することで恐怖政治による完全な統治を維持することができるとした。

李斯は法家の申不害の言葉『天下を保有しているのに思い通りに振る舞えない者は、天下を上手く生かせずに足かせ手かせの桎梏(しっこく)にしている者である』を引用して、二世皇帝・胡亥の快楽主義や安楽・怠惰の欲求を全面肯定していく。『法家の申不害・韓非子が説く督責の術(君主を例外とする法による万民の監視・支配)を用いれば、天下を楽しみの道具にして、天下や人民のために君主が使役される弊害を除くこともできる』とへつらいの提言をして、暗愚な胡亥を更に増長させるのである。

宰相・李斯は権力に追従する知性・才覚の限界を示した人物とも言えるが、『胡亥の悪政=重税・飢餓・恐怖政治(粛清政治)・豪奢と濫費』で民衆と臣下の不満が高まり、遂に陳勝・呉広の乱で秦の全国支配の基盤が崩れてくると、宦官の趙高との権力争いに敗れた李斯は『遠くない秦の滅亡』を悟って慨嘆した。

だが李斯は謀反の疑いで投獄されても、最後まで自らの弁論の才知と始皇帝時代の全国統一の功績に依拠して、卑賤な宦官の趙高よりも宰相である自分の意見に耳を傾けてくれるはずというわずかな希望を捨てず、『秦王・政を補佐して始皇帝とした功績,全国支配後の政治的な貢献や度量衡の統一』などを上書しようとした。

しかし皇帝の心をつかんだ趙高からすべて上書を握りつぶされ、執拗な拷問を繰り返し受けたことで、いかなる申し開きも秦王朝の再建策も、趙高に洗脳された二世皇帝の耳には届かぬと観念し、最後に皇帝直属の使者が事情を聞きに来ても何も反論せず、無実の罪を認めて死罪に服した。

史記は、法家の李斯を楚の一布衣(いちほい・無位無官)の貧しい身分から、始皇帝を補佐して全国統一の覇業を成し遂げさせ、徹底した法治主義(皇帝以外の無力化)で国の秩序を固め、秦の宰相にまでのぼった立身出世の人として記録するが、その末路は哀れで悲惨なものであった。

自らが築いた秦が暗愚の皇帝を戴いて傾いていく中、咸陽の市街で一族皆殺しの公開処刑に処された李斯について、史記を書いた司馬遷はその功績だけを見れば『周王朝の建国を補佐した周公旦・召公セキ』と並ぶ偉大なものだが、弁論と知見に秀でて『政治の要諦・帝王学の方法論(王者の資質)』などを知りながら、保身のために主君に阿るばかりでまともに諫言せず、逆臣の趙高の陰謀に加担したことから、士としての評価は低くその忠の徳もいまいちとされている。

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