戦国時代から江戸時代にかけての『兵法家(剣客)・軍学者・儒学者』の虚実と実用性の喪失:『戦術・剣術・政治学』は商売・士官の処世術に。

現代における日本刀(真剣)は芸術品・骨董品であり実用の武器として使われないが、刀はその実用性が弱くなり床の間に飾られるような存在になってから高価な芸術品となり、『武士の魂の象徴』として観念的に神聖視されるようにもなっていった。

江戸以前の武士・剣客には、刀に対する過度の精神性の投影(神聖視)はなかったとされ、宮本武蔵も佐々木小次郎との巌流島の決戦では刀の使用にはこだわらず、(脇差で削った)櫂を木剣として使い、勝つためには何でもする姿勢で勝利した。
古代日本には青銅器時代はないので『銅剣・銅矛』は実用の武器として人を殺すために使われたことはほとんどないが、実用性のない輸入(模造)された銅剣・銅矛は祖先祭祀の道具や政治権力・富裕の象徴として神聖視されていた。

現役で実用性の高い武器は、機関銃・拳銃・ミサイルなどがそうであるように神聖視されることは少なく(北朝鮮の核兵器崇拝などの例外はあるが)、実用性を失ってからの武器のほうが権力者に神聖視(権威権力の象徴化)されることになる。

『鉄砲伝来以後の弓矢・槍』なども、天下泰平の江戸時代以降に『有力な武門一族の象徴』として盛んに『弓矢・弓馬の道、槍一筋の家柄』などが(実際に戦もしたことがなく武術の腕も落ちているサラリーマン化した武士の口から)喧伝されていた。

徳川家康も自分が敵を射殺す弓の名手などではないが、『海道一の弓取り』として武士の中で突出した武芸・指導力の持ち主として象徴的な呼び方をされた。

戦の仕方を忘れた江戸時代の大名に流行した『軍学』という戦術戦法・軍備・布陣・築城・軍編成の学問というのも、基本的には『実戦に応用できない権威的・仮想的な虚学』だったが、藩を治める大名は形式的には『常に有事の戦に即応できる軍事体制(徳川幕府の救援に駆けつけて戦える軍事体制)』を敷いておかなければならないとされていたから、もっともらしい軍学を理路を通して説く弁舌家は徴用されやすかった。

軍学者は、武田信玄の戦術継承を『甲州流』として自称した小幡勘兵衛景憲を先駆けとするが、軍学者の多くは軍学を『出世・俸禄獲得の道具』とした勉強・読書・演説が得意な人たちであり、軍学の根拠となっているのは『太平記』『甲陽軍艦』などの物語的な軍記文学だったのである。

不満分子の浪人を動員して幕府に弓を引いた『由井正雪の乱』で知られる由井正雪も、『楠流』を称する大軍学者として当時求心力を高めていた人物だが、読書人の架空の戦術・軍事の限界(弁論は立つが実戦では勝てない)をあっさり露呈した。
とはいえ、江戸時代の軍学者は、普通は藩主や上級武士に講義をするだけでやるかやられるかの実戦の機会は皆無なのだから、本当に実戦で通用するかしないかはわからないまま終わっていたのである。

国学者の荻生徂徠などは軍学ははったりに過ぎずまともな軍学は古来の『孫子』くらいしかないだろうと語り、実戦で強かった薩摩藩の島津氏も『当家には当家に伝来する戦のやり方あり』という理由で持論で説得してくる弁舌家の装いがある軍学者は重用しなかったという。

俸禄(食い扶持)を得る手段が、戦乱の時代には個人の剣術(武芸)の強さを示す『兵法』に求められ、平和の時代になると読書・学問・弁舌の才覚や知識を前提とする『儒学』『軍学』に求められるという変化が起こった。江戸初期の大名は戦・謀略で勝ったり徳川方に味方して生き残った『政治の素人(読書習慣・教養のない無学文盲)の戦国武将』ばかりだったから、幕府の奨励もあり政治統治の権威的な根拠(どのような政治をすれば良いかの羅針盤)として儒学が持て囃された。

儒学は経世済民の政治学とされ、徳川家康も儒学を封建的統治の道具として好んで推奨したが、江戸初期の大名(藩主)は無学・無教養な者が大半だったので、儒学に精通した文化人・知識人にかなり高い禄を払ってでも召し抱えたい者が増えた。儒学もまた軍学と並んで有為な若者にとって出世の手段となったが、いずれも『実用性は乏しく権威的な拠り所』としての共通点を持っていた。

天下の趨勢が定まる関ヶ原以前には、個人の剣術や武技を修練する『兵法』も大いに流行り出世・俸禄にもつながることはあったが、それでも武将身分としての戦の武功(家老格の身分)がない個人の兵法のみを売りにする者の禄の上限は、肥後細川家に大番頭格の客分で召し抱えられた宮本武蔵の実質700~800石程度であって、いかに最強の兵法の使い手として喧伝されようとも1000石以上を得ることは概ね不可能だった。

近代以前、世の中が乱れれば兵法(剣術)が流行ったのは、幕末動乱の時代に剣術道場が次々と勃興して門下生を集める現象にもなったが、そういった兵法ブームの拠点となった道場から『新撰組』のような実戦型・集団殺法の人斬り集団が生み出されたりもした。

徳川幕府の兵法指南役・柳生家は12000石以上の大名になったが、これは兵法を評価されての禄ではなく関ヶ原の戦い以前からの徳川家のための諜報活動や関ヶ原の戦いの武功、その後の政治的活躍などによるものである。個人の剣術の兵法が最強に近かったから大きな禄で大名に取り立てられたのではない。

兵法家の剣客というと『実践的な人を斬り殺す剣術』を想起しやすいが、安土桃山(織豊政権)・江戸・幕末に至るまでの一流とされる剣客(流派の創設者)の多くは、実際に人を斬り殺す決闘はしていない。大勢の門下生を従えてからも基本的に『他流試合禁止(流派としての権威を高め、実際には戦わないことで無敵・不敗を維持する戦略)』であった。

幕末期に剣術流派の道場経営で成功した千葉周作・桃井春蔵・斎藤弥九郎は剣術の達人として知らぬ者なき存在であったが、一人も真剣で斬り殺した経験を持っておらず、幕末の志士で歴史に名を残した主要人物にも剣術の免許皆伝はいたが、坂本龍馬・木戸孝允・武市半平太などは剣術道場でそれなりの力量があったが誰も斬り殺していない。奇兵隊を組織した高杉晋作にしても刀で人を斬った経験はないとされるし、西郷隆盛・大久保利通といった薩摩の政治的・軍事的なリーダー格も自分自身では人を斬っていない。

人斬りと剣術(道場の勝負)の巧拙はまったく違うとはよく言われるが、幕末に人斬りの名人とされた河上彦斎だとか岡田以蔵、桐野利秋(中村半次郎)、田中新兵衛だとかも道場の剣術の序列においてはさして達人と見なされているような人物ではなかった。

塚原卜伝、上泉信綱、宮本武蔵、柳生十兵衛など戦国から江戸にかけての一流の剣客の多くは、果し合いにおいて不敗であるがそれは勝てる相手としか決戦しなかったからで、後は高名な権威を確立して立ち向かう者が既にいないような状態を維持していたから(名声を固めてからは本人も高弟も他流試合などには応じなかったから)だとも見ることができる。

宮本武蔵は自分の門弟になった者に他流試合を禁じており、道場破りに来た兵法家を軽く相手しようとした高弟・青木丈右衛門を厳しく叱責した逸話も残るが、それは一個人の生き死にの問題ではなく『(無敗で築き上げた流派が)ただ一度の敗北で名声を地に落とすこと』を警戒したからであった。

当時の兵法家は『剣術の技量・強さ』だけでなく『天下無双を宣伝するプロパガンダ合戦(無敗を守るために実力伯仲の相手とは戦わずして勝った風に見せる手管)』でもあって、剣聖・塚原卜伝(新当流の祖)にしても常時70~80人以上の弟子を大名行列ばりに並べて自分を特別な剣聖として崇敬させ数の勢力も示すことによって、自分と対等な目線で果し合いを挑むような者が現れないよう入念な守りを固めていたという。

とはいえ、天下に名前を知られた一流の剣客が剣術勝負において弱かったわけではなく、むしろ自分の流派を興して名声を高めた創始者はある種の剣術の天才(大半の相手にはまず勝てるだけの実力を持った者)であるからこそ、『流派による優劣の差』そのものは大したことがない(自分個人が強いのであって流派が最強なのではない)と知っていたと見るべきだろう。

上泉信綱も塚原卜伝も宮本武蔵も、個人の剣客としては相当に強かったが、それは自分の編み出した流派(剣術の型・奥義など)が最強だからではなく、個人として弱い剣客がいくら自分の流派を学んでもほとんど弱いままだということ(流派そのものによる優劣は小さいこと)を知っていたのである。

一流の剣客にとって、自分が教える剣術の流派は『商売道具』であるから、天下無双の宣伝(プロパガンダ)と自派が敗北で名声を落とすことの回避(高弟が迂闊に強い在野の剣術家と真剣勝負しないようにすること)に力を注いだということだろう。

軍学も兵法も儒学も、元々は『実戦の道具(戦争・果し合い・政治の手段)』であったものが、次第に『商売・士官・俸禄の道具(自分が有能・無敵・博学であることの権威ある見せかけ)』に変質していったという意味では似通ったところがあり、『有名無実化・権威主義・形式主義』は動乱期が過ぎ去った人の世の本質の一部ではあるのだろう。

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