「宗教・思想」カテゴリーアーカイブ

安倍首相の靖国神社参拝と国体・天皇に対する絶対的忠誠の道徳1:日本でなぜ本格的に近代史の授業がしづらいのか。

政治家の靖国神社参拝に特別な意味づけが為されやすい理由は、『国家神道・軍国主義・天皇崇拝と忠君愛国・ファシズム(拒絶困難な同調圧力)との密接な歴史的関係』があり、日本人が徴兵されて戦死することを正当化する(忠義の国民か卑怯な非国民かを踏絵のように識別する)『政教一致のイデオロギー装置』として機能した過去の呪縛的な重みがあるからである。

1930年代半ばからの戦時中の一時期の日本は、『軍国主義』であると同時に、記紀神話・天皇制を国体の本質とする宗教国家』であり、天皇は皇祖神(ニニギノミコト)の後胤である『現人神』なのだというフィクションを史実として真剣に信じる国民も少なくなかった。

少なくとも、天皇をただ天皇という歴史的な肩書や身分を持った普通の人間の一人なのだという意識は、多くの国民には無かったはずで、『天皇の意志』を勝手に都合よく忖度することで政治・軍事の判断に権威的な正当性を加えた政治家・軍人(虎の威を借る狐)が多かったのである。天皇陛下の御意志に逆らうのか(天皇陛下の指揮する皇軍に対して統帥権干犯をするつもりか)という一言は、軍部が戦争の決定や軍事予算の増額を行う場合の決め台詞でもあった。

厳密には、主権者である天皇と家臣である全国民という『精神的・象徴的な君臣関係』が生きており、『私は天皇の臣民ではなくその命令に従わない』という自意識・活動が反乱(謀反)と見なされたという意味において、昭和10年代以降の日本の国家観や政治体制は『民主主義・自由主義・権利思想』からは遠かったし、村社会的な厳しい相互監視体制に置かれてもいた。

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イスラーム圏(イスラムの人口・経済)の拡大は、21世紀の世界に何をもたらすか:2

宗教人口の最大勢力はキリスト教であり約22億人の信者(世界人口の約30%超)を抱えるが、イスラム教は約16億人の信者(約23%超)がいて、その信者数はアジアとアフリカの人口の多い地域で急増していて、2050年頃にはキリシタン人口を抜くという予測もある。

イスラーム圏(イスラムの人口・経済)の拡大は、21世紀の世界に何をもたらすか:1

これは『共同体・宗教観念』に縛られない自由で豊かな個人が織り成す欧米社会を模範とする世俗化と近代化を、『歴史発達段階の必然的プロセス』と見なすことが難しくなってきた予兆でもある。今までの進歩史観では説明のつかない事態であると同時に、近代化・科学的思考(実証主義)の導入が進めば進むほどに神や宗教の存在を信じなくなるとされていた人類の意識変化とも逆行しているように見える。

だが、現実はイスラーム圏の民主化はイラクやエジプト(ムスリム同胞団)、アフガン(タリバーン)がそうであるように『イスラム回帰(世俗主義否定・政教一致支持)』であることも多く、軍部(独裁政権)よりも民意(民主主義)のほうが逆にイスラームの教義や世界観に忠実な生き方や法律を望んだりもする。

民意を尊重した選挙の結果として、イスラム原理主義に近い政党(イスラームの教義や共同体の掟に忠実な昔ながらの生き方の強制や原点回帰)に支持が集まることも多く、欧米が民主主義政体として想定する民主化と自由化、人権擁護(男女平等)とがセットになった政治改革はイスラーム圏では全く常識としては通用しない。

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イスラーム圏(イスラムの人口・経済)の拡大は、21世紀の世界に何をもたらすか:1

ムスリム(イスラム教徒)が人口の9割以上を占めるイスラーム国は、日本にとっては『石油・資源の輸入拠点』という以上の意味合いが弱く、経済的な相互依存性はあっても政治的・文化的・価値判断的には依然として『遠い国』というイメージが強い。

地理的(距離的)にはヨーロッパやアメリカよりも中東・中央アジアのイスラーム諸国のほうが近いにも関わらず、日本人の多くは欧米諸国よりも中東・中央アジアの国々を心理的に遠く感じている。

のみならず、欧米よりも治安が悪くて紛争が多い国(日本的な価値観や常識で迂闊に振る舞えば何らかのタブーや宗教法に抵触しかねない国で何となく息苦しい)として警戒し、(マレーシアやインドネシア、トルコ、ドバイなど世俗主義・外国人誘致で観光立国を目指すイスラーム国を除いては)あまり行きたがらない面がある。

イスラーム圏(アラブ地域)は『欧米中心の近代化・画一化』に抗い続けている宗教と共同体の伝統規範が息づく地域であり、その伝統規範が非合理的・対決的(特にユダヤ人との地域紛争の歴史を踏まえた対立)であったり時に人権抑圧的であったりするために、欧米中心史観の上では『未開と紛争の土地(結果としての市場利益や個人の自由と平等の拡張、人権に根ざした罪刑法定主義といった欧米主導の価値観のスタンダード化に簡単には従わない土地)』と解釈され続けてきた。

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米兵の捕虜虐待が話題となった『アブグレイブ刑務所』が襲撃され、500人以上の服役囚が脱走。

イラク 2刑務所襲撃 500人超脱走か

アブグレイブ刑務所は元々は、1960年代に独裁者のサダム・フセインが建設した『反政府勢力の拷問・処刑の施設』だったが、フセイン政権が崩壊した『イラク戦争後』にはアメリカの勝利とイスラム過激派(反米武装勢力)の押さえ込みを象徴する建造物として意識されることになった。

2004年にアブグレイブ刑務所で米軍によって行われていた『大規模な虐待・拷問・レイプ(同性愛・自慰の強要も含む)』などが明らかとなり、ジュネーブ条約やアメリカ国内法に違反しているそれらの捕虜虐待は国際社会から厳しい非難を浴びて、米軍は軍法会議を開いて虐待・拷問を主導した幹部級の軍人を厳罰処分にしている。

最も有名な事案は、にっこりと笑顔を浮かべた男女の米兵が、イラク兵やアルカイダ兵の捕虜に覆面を被せて裸にして這い蹲らせ、その上に乗ってピースサインをしている写真を撮影したというものだが、それ以外にも膨大な非人道的な虐待・拷問の証拠資料が集められている。

虐待・拷問に集団心理で参加したアメリカ兵の言い分は、仲間を無慈悲に殺したイラク兵やアルカイダ兵(テロリスト)に対する怨恨・怒りの憂さ晴らし(代理的な復讐行為・敵兵の自尊心の破壊)をするために、性的な虐待や残酷な拷問をしたが、それをしている最中には良心の呵責を殆ど感じることがなかったというもので、現代のハイテク戦争でも『戦争・戦場の狂気(国際法を無視して仲間を殺した敵兵を辱め苦痛を与えようとする動物的な本能)』を無くすことができない悲惨な現実を先進国に突きつけた。

アブグレイブ刑務所は2004年5月に、米軍が大規模な捕虜虐待問題の発覚により捕虜の収容を停止した。現在では米軍からイラク政府に移管されているが、『バグダード中央刑務所』として政治犯・テロリストの収容だけに限定しない刑務所として機能しているようだ。

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トルコの世俗派・リベラル派の反政府デモとエルドアン首相のイスラーム主義政策の反動

トルコは国父ケマル・アタテュルクの政教分離の世俗主義とイスラームの生活規範の影響を制約した旧憲法(1982年制定)によって、イスラーム圏では珍しく自由主義・人権思想を尊重する西欧的な近代国家に近い法体系を持っている。世俗主義と自由経済を軍部が支持してきた歴史があるが、かつては圧倒的に民衆の支持を集めていた『世俗派(西欧化の支持派)』が、近年、エルドアン政権の経済政策の好調などもあり保守的なイスラーム右派の政党勢力に押され始めている。

イスラームの教義や伝統を、政治・国民生活に反映させようとする大統領・首相・与党が一定の支持を集めており、個人の自由や人権を尊重する世俗主義(イスラームの規範を法律として権力が強制しない国の指針)が後退して『イスラーム化につながる政治改革』がより進められるのではないかという懸念が欧米にも広がっている。

トルコの反政府デモ激化の直接の引き金は、タクシム広場周辺の大規模な再開発に対する反対運動(公園保護運動)であり、タクシム広場の『アタチュルク文化センター』を取り壊してオペラハウスにする再開発計画が『世俗派の象徴的・思想的な建築物の破壊』という風に受け取られてしまったのである。

しかし、世俗派(リベラル派)と対立するエルドアン首相が、『夜間の酒類販売禁止法』を成立させたり姦通罪の復活を図ったりするなど、イスラーム色を強めてきていることも反政府デモと関係している。『宗教から生活に干渉されたくない』などのプラカードも立てられていて、エルドアン政権のイスラーム主義政策が、飲酒のような国民の私生活・価値観まで法律で規制しはじめていることに、自由主義にコミットする若者層を中心として反発・不安がわき起こっているようだ。

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自我の強さと自他の差異が生み出す“優越感・劣等感・自己顕示”をどう考えるか?:『超訳 ブッダの言葉』からの思索

仏陀(釈迦)が起こした仏教は、煩悩・欲望の源泉である『自我』を滅却しようとする特異な宗教であり、自我の現れとしての『自己顕示・慢心・自慢』を戒めている。

砕けたポップな言葉で経典の言葉を今風に翻訳した『超訳 ブッダの言葉』を電子ブックで買ったので、その言葉を引きながらブッダの思想や仏教の世界観を考えてみます。

ちょっと言葉が砕けすぎているというか、原文ままの翻訳ではない意訳なので、仏教の学問的な勉強(哲学的・権威的な固い文言を読みたい目的)には向いてないですが、気楽に人生哲学のようにして読み流す一般人向けの本としては良いと思います。『超訳 ニーチェの言葉』の姉妹本ですが、こちらも岩波文庫のように哲学的な重厚感、解釈の奥行きを感じさせる文章(読む人を選ぶ文章)ではなく、現代風のざっくばらんな話し言葉を意識して書かれた文章ですね。

諸法無我とは『自分』と『他人』との境界線が消えることであり、自我の実在性(確固とした他と区別される自分の意識)がいずれは死滅する虚妄・幻影だということを達観することなのだが、自分の価値を顕示しようとする試みは自他の心を惑わせ、いずれは挫折する(生命が燃え尽きる)宿命の下にある。

029 『誰々の』を忘れるハピネス

『この考え(アイディア)は僕のオリジナルさ』
『これはあの人の発案だ。負けたなぁ』
『これはあいつの意見だ。けなしてやろう』
これら『誰々の』という狭い見方をすると、君の心は、我他彼此(がたぴし)と苦しくなる。

『自分の』『他人の』。
このふたつを君が忘れ去ったなら、仮に何も持っていなくても、幸せな心でいられるだろう。

経集951

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