映画『R100』とその他の映画(『スター・トレック』『許されざる者』『エリジウム』など)の感想

総合評価 50点/100点

松本人志監督の『R100』は、昏睡状態に陥った妻(YOU)を看護しながら家具店で働いている真面目な片山貴文(大森南朋)が、秘密倶楽部の『ボンテージ』に入会してマゾヒズムの快楽に目覚めていくというナンセンスなストーリー展開になっている。

未体験リアルファンタジーエンタテインメントと銘打っているが、映像の色調の暗さや大森南朋の『快感を得ている顔の修正』に非現実感が微かに感じられる程度で、ファンタジーのジャンルに括れるかは微妙だし、SMがテーマだといってもエロティックな描写に重点があるわけでもない。

ただ冨永愛や佐藤江梨子、寺島しのぶ、大地真央などの出演陣がボンテージファッションを着せられているだけの映画とも言えるが、ガタイのいい白人のボンテージCEOが出て来て暴れる後半の戦闘シーンは一体前半のストーリーとどういった接続をしているのだろうか…。

『ストーリーの連続性』と『SMのテーマの必然性・奥行き』がない映画のため、ただ映像を眺めているだけであっけなく終わるという印象だが、実生活の中に突然暴力的にSの女王が闖入してきて嗜虐的な行為をするという『ボンテージ』のシステムの新しさを強引にリアルファンタジーとして解釈するしかない。

そもそも、100歳になるような高齢の監督が自分の世界観だけで突っ走って制作している『劇中劇』として『R100』は設定されており、映画の中の制作会議でも『R100のストーリーには前後のつながりとテーマの意味がないという舞台裏の話』が繰り返されているわけで、そのタイトルのまま、『100歳未満の鑑賞禁止のブラックナンセンス映画』である。

映画の感想は暫く書く時間がありませんでしたが、『R100』より前に見た映画の評価と寸評は以下になります。

『ガッチャマン』……総合評価 63点/100点

ガッチャマンの原作アニメは殆ど見たことがないのですが、剛力彩芽・松坂桃李・初音映莉子の三角関係めいた“ガッチャマンの内輪揉め・過去の確執の絡んだやり取り”がメインになっているという筋書きで、人類防衛の戦力としてのガッチャマンの存在感が冒頭の戦闘シーン以外ではやや弱くなっていました。

『スター・トレック イントゥ・ダークネス』……総合評価 70点/100点

映画版のスター・トレックのリメイクですが、主人公のジェームズ・T・カーク船長(クリス・パイン)が過去のスター・トレックよりも血気盛んで無鉄砲な若い船長のイメージ(過去の作品よりもカークが若い時代)に刷新されており、新しい作品として楽しむことができます。

科学文明のない原始的な部族生活を送っている異星人の歴史に干渉してしまったことで、カークはエンタープライズ号の船長から降格されてしまう、それはヴァルカン人のスポックを救出するためのやむを得ない措置だった。

『熱血で感情的な人間のカーク』と『理性的なヴァルカン人のスポック(ザカリー・クイント)』の対照的な行動原理もスター・トレックの面白さになっています。スポックはどんな事にも感情を乱さない論理的・理性的なヴァルカン人(ヴァルカン人は感情に振り回されて争う人類よりも高等な種族としての自意識を持つ)で、カークとの衝突を通して時に感情の価値についても若干の理解を示したりもします。

『ウルヴァリン SAMURAI』……総合評価 75点/100点

『マン・オブ・スティール』……総合評価 73点/100点

『エリジウム』……総合評価 63点/100点

数百年後の近未来、全てが揃った地球周回上の宇宙ステーション“エリジウム”に住む富裕層には、もはや貧困も犯罪も環境汚染も病気も納税もなく、特権階級としての何不自由ない人生を享受する事が保障されている。一方、“地球”に住む圧倒的多数の貧困層は、劣悪な労働環境に押し込められるか貧困・無職・病苦の中に放置され、エリジウムに供給するためのエネルギーやロボットを生産するための道具と化していた。

地球に住む一般人のエリジウムへの立入りは厳禁されており、正式なIDを登録されていない人間の不正な領域侵入に対しては、自動排除プログラムが作動して即座に排除される。

未来の超格差社会を描いたSF映画だが、予告編で期待させられる『エリジウムにおける理想的な生活・圧倒的な科学技術やロボット』や『地球における一般庶民の貧困や病気に喘ぐ生活』の描写は殆どなく、自分の体をサイボーグ化させたマット・デイモンがエリジウムに乗り込む単純なアクションになっているのは残念。未来社会における人間の生活・思想・技術・制度の見せ方によってはもっと面白い作品になっていただろう。

『許されざる者』……総合評価 78点/100点

1992年公開のクリント・イーストウッド監督・主演の西部劇『許されざる者』を、戊辰戦争が終わって間もない明治時代初期の蝦夷地(北海道)を舞台に据えてリメイクしたもの。アメリカの西部開拓時代と日本の明治初期の蝦夷地の類似点は、『中央政府の権威・法律の支配力』が十分に及んでおらず、アメリカ人(日本人)が先住民であるインディアン(アイヌ)を虐待・搾取したり土地を奪ったりしたことだが、蝦夷地には中央政府から追われる旧幕軍のお尋ね者や社会に馴れないならず者も流れ込んでくる。

小さな寒村を独裁者のように牛耳っているのは、中央から派遣されてきた警察署長の大石一蔵(佐藤浩市)。庶士から成り上がった大石一蔵は自分に媚びて従う者には甘いが、わずかでも自分の権威や命令に逆らう者には徹底的に冷淡であり、自分の管轄する村の中には旧士族であろうとも『一切の刀・銃の持ち込み(暴力・恐怖で支えている自分の地位を揺るがしかねない有形の武力)』を許さない。特に旧幕府時代に威張り腐っていた武士(士族)を毛嫌いしている。

長州藩出身の士族で剣術の腕に覚えのある北大路正春(國村隼)は、幕府時代の身分意識を引きずって大石よりも格上のような感じで居丈高に村に入ってくるが、帯刀禁止の村の規則を破っていたため、大石から不意討ちを受けて滅多打ちにされ武士のプライドを打ち砕かれてしまう。

大石は些細な理由から遊女のなつめ(忽那汐里)の顔面を切り刻んだ無法者の堀田佐之助を、厳罰に処すことなく賄賂を受け取って赦免してしまうが、この不条理な処分に納得のゆかない遊女仲間はお金を出し合って堀田ら二人を『賞金首』にしてしまう。

旧幕軍時代に数十人の官軍の部隊をひとりで縦横無尽に斬殺したことで“伝説の人斬り”と恐れられた釜田十兵衛(渡辺謙)だったが、かつての幕軍の英雄も明治の御一新後は賊軍のお尋ね者となり、現在は妻との約束で刀を捨てて荒れ果てた北の大地を必死に耕している。旧知の馬場金吾(柄本明)に誘われて、アイヌと和人の混血の青年と共に大石が支配する村にやってくる。子供たちを飢えさせるまでになった貧困に耐え切れず、長年放って錆び付いた刀に再び手を掛けてはみたものの、かつてのように敵を積極的に斬り殺すような気持ちにはなれずにいた…。