“悪(斜に構える)の魅力・自由”と“生真面目(不正を糾弾する)の窮屈・不自由”

というのは場合によっては有り得るだろう。悪い男といっても『暴力暴言を伴う恐怖感・実際の負担が生じる借金のツケを与えるような悪い男』はやはり好かれないし遠ざけられるものではないかと思うが、多少のルーズさや格好つけ(見せかけだけ)の悪さがあっても『愛嬌・興味関心の強さ(新しい事に対する行動力)のある悪そうな男』は人によっては好ましいキャラクターになることはある。

生真面目過ぎて融通が効かないような人がなぜ好かれにくいのかというのは、やはり『真面目な人に不真面目な話題を振ってはいけないのではないかという道徳的な萎縮効果』があってどことなく堅苦しく、対話や精神の自由度が自ずから落ちるからである。

解明!良い男じゃなくちょっと悪い男に惹かれてしまう理由―研究結果

生真面目過ぎる人は、『この人にはこういう話題を振ると不機嫌になるのではないか、こういうちょっと不道徳なところのある価値観は絶対に受け入れない人だろう』といった事前制約が多くなり過ぎて、自由にモノを言いにくいという短所が生まれやすい。

本当の悪人まではいかない悪っぽい人というか、ちょっとちゃらんぽらんに見えるくらいの人(道徳的な正論でのゴリ押しをまず打ち出してこない人)のほうが、『さまざまな話題や経験、価値観を受け容れる懐の広さ』が広くなりやすいという部分はあるかもしれない。

四角四面の規範や常識に縛られた形式上の善人は、自分の信念や生き方を正しいものとして話を返すから、相手の話題の道徳的な問題点や法律的な違反の要素などばかりに着目して、『いや、それは間違っている。そういうことをしてはいけない。君の考え方は浅いし非常識だ』といった否定・説教・注意などに入りやすく、たまにならいいがいつも話す相手としては息が詰まったり面倒くさくなりやすい。

恋人・配偶者として『正論・常識(世間)を盾にした否定からしか話に入らない人』はかなりの確率で関係が破綻するが、『否定・批判を多用する会話をする人』は『相手が間違っているからそうなるのだ(正しいことを主張して何が悪い・間違っている相手が折れなければいけない)』という姿勢を改めることがないので、別れて違う相手と付き合っても同じパターンの関係悪化に陥りやすい。

何でもかんでも斜に構えすぎるのも良くないが、決まった真っ直ぐの方向しか向くことができない、人情や状況を考慮せずに正論を貫き通す形式としての善(生真面目の過剰)というのも、人間関係の上ではトラブルやすれ違いを招きやすい。殺人とか強盗とか大きな悪事をする人は論外だが、教条主義にはまらない程度に悪っぽい人というのは『自分も間違いを犯す人間であることを自覚した上での他者への甘さ・優しさ』を持てるというのが人間的な魅力として映る可能性はある。

そういう良い意味でのいい加減さ(規範至上主義で他人を責めないルーズさ)、いろんな相手の価値観を受け容れる柔軟性を持つ人が『悪人』と呼べるかどうかは微妙だし、記事でいっている『悪い男』とは関係のない話になってきたが、『相手に迷惑をかけるタイプの悪人』に惹かれる場合には、女性側のトラウマが関与した価値判断やパーソナリティ構造が関係していることもあるだろう。

『悪』という文字には『良さに対する悪さ』の意味だけではなくて、剛勇で鳴らした源義平が『悪源太』と称されたように『弱さに対する強さ』という意味もある。
真面目一辺倒にやっているのになぜ評価されないのか人に好かれないのかという声はいつの時代にもあるが、『真面目にやってさえいれば報われるはず・我慢してやっているのになぜこんな目に遭わせられるのか』というのはやはりどこかエクスキューズ(言い訳)じみた弱さを感じさせてしまうのかもしれない。

ほどほどの善も、ほどほどの悪も似たようなものであるし、善悪が極端なレベルにまで触れると破滅的・反社会的か拘束的・機械的かになってしまい、大半の人は極端な善人にも悪人にも近づき難く感じるものである。

普段はひどい人なのにたまに優しくなるとかいった『予測困難な形でランダムに与えられる優しさ・報酬』が好きという人も中にはいるかもしれないが、本質的には『他者を受け容れる器量の広さ(斜に構えていて正面から人の落ち度や小さなミスを叩かない)』や『エクスキューズ(言い訳)なしで結果を受け入れて次を考えるタフさ』が悪っぽい人の魅力のイメージになっているという風に感じる。飽くまで他人を傷つけるまでいかない悪っぽい人であって、重犯罪や迷惑行為を重ねるようなただの悪人にまでなると、そういったルーズさと覚悟の伴う魅力は雲散霧消するだろうが。