静岡県沼津市の小学生男児の交通死亡事故:理不尽な事件・事故のゼロ化への欲望の向かうところ。

29歳の中学校教師が運転する軽自動車が、10日午前6時55分ごろ、静岡県沼津市松長の県道交差点で中央線を越えて小学校4年と5年の男子児童2人をはねて、小学校5年生の男児が死亡したという自動車事故。

2児はねられ小5死亡 運転の中学教諭、過失致死傷容疑

子供が犠牲になる自動車事故はより一層の悲しみや理不尽を感じやすく、当事者以外にも共感・同情されやすい。また、死亡事故を起こした加害者への怒り・不満・処罰感情が集中しやすく、インターネットでは交通死亡事故や無謀運転の結果の事故を引き起こした加害者には痛烈な道徳的非難や人格否定のコメントが叩きつけられることになる。

一方で、意識や認知、能力、健康状態が不完全な人間が運転する車は、どれだけ注意していても死亡事故の刑罰を引き上げても、確率論的に交通事故を起こすという側面を否定できず、重大事故や死亡事故を起こした加害者にしても事故を起こしたくて起こしたという人はほとんどいない。事故後にどれだけ激しく罵倒されたり誹謗中傷されても、それによって現状以上に交通事故件数や交通事故死者数が大きく減る可能性は低いだろう。

高度経済成長期に毎年約1万5千人以上の交通事故死者を出した『交通戦争』と呼ばれた1960~1970年代の時代から比較すれば、交通マナーの向上や飲酒運転・危険運転の厳罰化が為され、人命を奪い人生を狂わせる自動車事故の恐ろしさの啓蒙が進んだ現代は、かつてよりも交通事故で死ににくい時代(認知症者なども含む高齢者がひかれる事故件数は増加しているが)になってはいる。

現代でも自動車マナーが悪い人や無謀運転・飲酒運転で事故を起こす人は少なからずいるが、それでも交通事故の死亡者数は5千人を割り込むところまで大きく減っており、『ドライバー各人の注意力・意識とマナーの向上』によって減らせる最大値に近いところまで減ってきているという見方もできる。

約40年間で交通事故死者を6~7割以上削減した結果は、一定の評価が為されてもおかしくないが、2000年代のインターネットの普及や事件・事故の共通の話題化(不特定多数の間でのウェブでの話題化)により、『一つの悲惨な事故・事件』に注がれる人々のアテンション(注意)と分析欲求が強まり、そういった事故・事件に対する『人々の生の怒り・不満・不安の声』が可視化された変化は大きい。

大勢の人の事件事故に対する不安や恐怖、怒り、断罪の声が、常にウェブ上では満ち溢れており、何度も繰り返しそういった『事件事故にまつわる激しいコメント』を目にすることで、実際以上に事件事故が増えているように体感治安を錯覚してしまったり、みんなの意見によって『自分の感情・判断』が攻撃的(他者不信的)な方向へと影響されやすくなった。

犯罪統計・事故統計の上では、現代は過去よりも事件・事故が減少した相対的に安全な社会であるが、『一つの凶悪事件・重大事故』に対して向けられる人々の意識や感情、言葉は激しさと持続性を増している。そして、『結果を受け止められない悲惨な大事故』や『犯人を許せないと思う凶悪事件』が一つ二つ起こって、その話題にみんなが関心を持ち言及・分析をすると、現在が過去と比較して最も危険で殺されやすい時代のように認知的・感情的に錯覚してしまいやすいのである。

例えば、交通事故死者数は年間5千人ほどに大幅に減ったとはいえ、1日当たりの死亡者に均せば毎日約14人が交通事故で亡くなっているので、それを全てマスメディアがこの小学生の死亡事故と同じくらいの詳しい扱いで取り上げれば、『ものすごく交通事故が増えているという認識』を持つ視聴者やネットユーザーはきっと増えるだろう。

逆に同じ事故であっても、加害者や被害者のプロフィールや事故状況を余り深く掘り下げず全国区のニュースにせずに、『29歳男性が運転する自動車が、小学生二人をはねて、うち一人が死亡しました』と淡々と事実を報じるだけであれば、恐らくこの事件に関心を持ったり言及する人の数は相当に減るはずである。

約1億3千万人が生活して数千万台の車が走っている日本で、毎日14人の人が交通事故で死ぬというのは、車を不完全な人間個人の注意力と健康状態、運転技能で運転していることを考えれば、それ以上の水準にまで減らすことは『個人の注意・努力,交通安全運転キャンペーン,交通法規の厳罰化』では概ね不可能なのではないかと思う。

しかし、全体として事故死が減っていても、その一人に自分や家族、恋人、友人知人がなってしまえば、確率論的・統計的な多い少ないの議論は意味がないし、そんなことを言われたら腹が立つし傍観者的な物言いが許せないと感じるのが人というものであり、そういった感情を極論で突き詰めれば、理不尽な交通事故がゼロになるまで納得できないという話にもなってくる。

実際、このニュースに対するコメントでも、『自動車社会そのものに反対である・自動車を完全に規制して無くすべき・個人は公共交通機関のみで移動せよ』といった極論もあるわけだが、こういった極論は経済的にも心理的にも利便的にも現実的なものではなく、コスト対効果の部分で単純多数決においても支持されないだろう。

大多数の人は、理不尽で悲惨な事故は確率論的に起こるかもしれないが、自分は車に乗って移動したり遊びに出かけたりすることをやめないという判断をする。そこには、こういった悲惨な事故を自分とは無関係な他人ごとと思い込もうとする心理や自分はこういった事故を起こさないように最大限の注意をしようとする覚悟はあるが、『こういった事故を起こすかもしれないからもう車に乗らないようにしよう』という人はまずいない。

また、そんな極端な選択(車に乗るなとか捨てろとか)を勧めてくる家族や周囲の人も普通はいないし、地方では通勤・仕事・買い物・拠点の移動などが車なしではできない公共交通網がない地域が多数あるので、車は必需品の扱いである。

現代は人間個人の生命の価値が限りなく高くなった時代であり、近代以前のような『感染症・飢餓・貧困・戦争・差別・天災による不条理な被害や死』をほとんどの人が経験しなくて済む豊かで平和な時代でもあるが、それだけに『偶発的・不可避的な事件事故』というものを絶対に許せないという人々の完全主義的な欲求(あらゆる事件事故は未然に防げるはずでそれができないのは誰かが悪い)は留まることを知らなくなりつつもある。昔は人為ではどうにもならない(対策をしても一定の死者がでるのは仕方がない)とされていた天災でさえも、行政府の防災対策に求められる責任レベルは非常に高くなっているのだ。

例えば、戦前戦後の子沢山な時代は、今では信じられないほど大勢の子供が『不慮の事故』で死亡したり障害を負っていたりしていたが、これは親が農作業や家事労働をしていてずっと子供を見ていられない時に(あるいは他の小さな兄弟姉妹に任せていた時に)、少しの間目を離して、池・川に落ちてしまったり高所(田んぼ上の道路)から転落したり、囲炉裏・火鉢に突っ込んでしまったりした事故が大半を占める。

しかし現代的な倫理観や親に求められる責任を考えれば、『親が他の仕事・作業をしていて目を離していた隙に、子供が水没・火傷・転落・車の事故に遭って死んだ』というと、それを『不慮の事故(どうしようもなかった事故)』や『神様が連れていってしまったという夭折に納得するための伝承で曖昧にする型の事故』とはおそらく認めてくれず、わずかでも目を離していた親はかなり痛烈に誹謗中傷されたり親失格として叩かれるだろう。

現代人にとっては、他者や行政、製品(道具)、環境などの責任追及・処罰が伴わない事件事故というものがほとんど無くなっており、『偶発的・不可避的な事件事故だからという納得の仕方』が非常に難しかったりそういった納得ができなくなっている。誰かが悪いから何かに欠陥があるから、行政や法律が不十分だから、事件事故が起こるという前提が共有されるようになり、『悪者とされる人・欠陥のある環境や法律・対策や処罰の不十分さ』を感情的に攻撃したり法的に処罰したりすることを求める欲求は格段に強くなった。

自動車事故というのはその責任追及・処罰感情の時代差を象徴するもので、1980年代くらいまでは暴走族の無謀運転などが絡んだ死亡事故でも『偶発的・不可避的な事故(仕方のなかった事故)』として被害者家族に受け取られることすらあったが、近年ではそういった受け取られ方は殆どされなくなり『加害者の責任・落ち度・人格性・道路環境や法制の欠陥が問題視される事故(より厳しい刑罰や賠償が求められる事故)』へと変わってきた。

そのことには、交通事故を減少させたり運転者の注意・マナーを向上させる良い効果もあったが、こういった何かに責任や落ち度を求めるという心理の背後には、『社会的コミュニティの連帯感の喪失(個人・家族の孤立化)』や『将来不安の増大(現在よりも生活・安全が悪くなっていくという予測)』といったものも少なからず関係しているだろう。

コミュニティの衰退や将来不安の増大は、『自分・家族・知人以外はすべて仮想敵という意識』や『わずかでも迷惑・危害を加える他者は徹底的に叩いて排除すべきという不寛容』を強めていく恐れがあるが、こういった時代的・心理的な背景を考えれば、今後、交通事故件数が更に減っていったとしてもゼロ件にまで近づかなければ、『交通事故に対する怒り・非難の共有感情の高まり』は収まることがないように思える。

理不尽な事件・事故のゼロ化への欲望の向かうところは、『注意力・技能・健康状態が不完全な人間』に他人の生命や安全に関わるようなクリティカルな作業・業務をできるだけさせないようにする社会であるが、自動車事故をゼロ化したいという欲望・正論は『人が運転しない自動運転車の導入・自動車と情報交換して速度や路線を自動制御できる道路インフラ』などに向かっていくのかもしれない。

人間(他人)は確率論的にミスを犯すものであるというヒューマンエラーの前提は、今まではその事故確率をできるだけ減らすことに重点が置かれていたが、これからは原理的に事故が起こりようがないようにするシステム的・技術的・生命操作的な制御へと方向性が転換する可能性がある。

しかし、システマティックな環境管理技術によって『不完全な人間による注意・判断・行動・結果からのフィードバック』を可能な限り無くしていこうとするシステム化・ロボット化の努力は、突き詰めれば人間の不完全な主体性や自律性をスポイルして邪魔者にしていくものであり、『バカ・ミス(他人からのわずかな迷惑)を許さない現代のウェブの空気』も含めて、人間の生存する意味や生殖する本能を阻害(懐疑)してしまう副作用を伴うだろう。

不条理な事件・事故をゼロ化するために人間が努力しようとする方向性は概ね正しいと思う。だが、不条理な事件・事故をゼロ化するために『人間が関与できる領域(人間の意志・思考・判断・行動の有効範囲)』をシステマティックに減らしていこうとする方向性(人間の生の全体をシステム的に登録管理・保護して不確定要因を排除する方向性)は、この世界に自らの意志とは無関係に生まれ落とされることそのものに投企の理不尽さ・不条理性を抱える人間存在のあり方さえもシニカルに懐疑することになるのではないか。

『システム・制度設計に管理(保護)された生』という意識は、少子化や人生の面白さの感度、生の欲望の強度ともどこかでつながっている可能性があるが、管理される領域があまりに網羅的になると、自由意思と主体性を持つ人間がどうしてそういったシステム(硬い枠組み)の中で生存して生殖しなければならないのかという、個人の生・社会(生命)の再生産の根本的な動機づけの上での葛藤を引き起こす恐れがあるかもしれない。