豊かな先進国の自殺率は途上国よりも高いが、なぜ日本は特に高いのか?:システムのレコードと他者(世間)の目線

現代の先進国は医療水準の向上と栄養状態の改善、交通事故死の減少傾向(飲酒運転など交通違反厳罰化・速度の出ない渋滞の慢性化)によって、『乳幼児死亡率・病死率・事故死率・餓死率(戦死率)』が下がるので、必然的に『自殺以外の死因で死ぬ若者の比率』は減ることになる。

生きることそのものが目的化できるほどに、『戦争・飢餓・病気・虐待(身分差別)による淘汰圧』が十分に強い社会では、『動物的な生存・生殖の本能』が先鋭化しやすく、自殺という行動選択が現実的なものとして考えられる頻度が少ない。

学校教育や知識教授による自我意識の肥大も抑制され、大多数の人が自分と同じように貧しく苦しい境遇で必死に生きているため、『自分が何者であるのか・自分の人生がどのようなものなのか・なぜ生きなければならないのか』の自省的・意味論的な思考が人生の中心になる余裕そのものがない。自意識の拡張(優越・豊かさ・見栄への欲)や周囲との差異がないために、『生きるために生きることのハードル』が低くなるので、自殺するリスクは必然的に低下していく。

先進国の学校教育の多くは『生きる力・サバイバル力』よりも『競争する力・専門性を身につける力』と相関するものなので、『学校・企業・役所などの決められた帰属(関係性)と枠組みから逸脱した個人』は経済的にも精神的にも脆弱となりやすいが、先進国では学校・企業・役所と相関しないコミュニティ(ゲマインシャフト)や持続的な自営業は概ね衰退しやすくなっている。

バブル崩壊後の一時的な自殺の急増は、『企業の雇用・社会保障の枠』からの篩い落としから立ち上がれなかった人たちの影響が考えられるが、2000年代前半までの自殺率の高さは、高度経済成長期から日本経済の最盛期までの『一億総中流社会の意識との一体化(人並みのライフステージの進行から脱落することの恥・恐怖と自己否定)』によってもたらされていた側面がある。

2000年代後半からは、格差社会の進展が客観的なジニ係数というよりも『若年層の雇用格差・出身家庭格差・学力格差(意欲格差)の意識』によって露見するようになり、どんな家(親)に生まれても努力すれば中流階層のライフスタイルに大多数の人がありつけるという『一億総中流社会の幻想』が崩落した。

『下流社会・ネットカフェ難民・ナマポ』などの造語によって、中途からの競争の逆転が著しく困難な構造(その構造自体は昭和期以前から日本の身分制・財閥経済の名残として確固としたものとしてあったが高度経済成長期には意識下に沈んでいた)が読み解かれ、極めて悲惨・貧困な境遇に置かれ続けながらも帰れる実家(頼れる親類)もない若者たちの姿がメディアに映し出された。

生まれも育ちも都会で田舎(血縁者による最低限の互助)がなかったり、親世代が長らく失業や貧困の状態にあったりなどすれば、企業の雇用と福利から僅かな期間でもこぼれ落ちて無収入の状態が続けば、そういった若者は極めて容易に貧困層やホームレス(住所のない立場)に転落してしまう。

格差・貧困問題・社会福祉の著作の多い湯浅誠氏はこれを『タメ』と呼んだが、貧困やホームレスとは概ね無縁の人たちには、『家族や持ち家・貯蓄や資産・投資余力・学歴(基礎学力)や専門技能(実績)・人間関係・田舎や血縁コミュニティ』といったタメがあるため、ある程度の期間失業したとしてもいきなりホームレスになって日雇いや風俗業、犯罪組織などに身を沈める他ない立場にまではいかない。

自殺率が微減している原因としては、かつての『根拠のない中流意識(フルタイムでそれなりに働いてさえいれば平均所得前後を稼いで人並みに暮らせて耐久消費財を買えるのが当たり前)』が弱まって、家庭環境や経済状況、学力・技能・コミュニケーションスキルなどによる格差が半ば所与のものとして諦観されるようになったこともあるだろう。

日本で自殺率が高い理由は、『孤立した個人の比率の高さ』と『ムラ社会と中流社会の相互作用による独特の自尊心及び世間体の発達』と『自殺を禁忌とする価値観が歴史的になく自殺が社会的な不名誉を回避する手段として流用されてきたこと(生き恥を晒さない・恥辱を雪ぐなどの慣用句にある潔い自死の肯定視や生への執着を嫌う感性)』にまとめることができるかもしれない。

学生の自殺の原因の多くに、いじめや集団不適応が絡んでいるが、稀に将来の思想的な悲観や虚無主義的な感性が自殺原因になることもある。

日本のような同調圧力や集団協調の強い社会では、学校でのいじめ・集団不適応の経験は、その後の職業生活や企業適応においても『自分が集団生活・序列構造に適応できないのではないかという不安』を強めるが、日本では企業・役所といった所与の組織に所属せずに稼ぎ続けられる仕組みが極めて乏しく、そういった働き方を絶対的な前提としている人がその枠組み(就職・結婚・出産・昇給・老後保障などの望ましいライフコース)から外れた時の無力化・自己否定は激しいものがある。

日本の自殺の中には『最低限の生存維持のレベル』であれば何とか保てるという生活状況や精神状態の人が多い可能性も高いが、日本をはじめとする先進国の若年層では、地べたを這いつくばって泥水をすするような最低限の生活(あるいは耐えがたいほどの激烈な病苦・激痛・孤独・絶望)に長く耐え抜いてでも『生きているだけで丸儲け』と思えるほどの強靭な生命力と卓越した人生観に我が身のこととして到達できている人はかなり少ない。

そこに到達できると自負して実践できるのであれば、その人は自殺するリスクはゼロと言って良いかもしれないが、そういった生きる力(死にたくない執念)にまつわる自信・確信を言語レベルで豪語することにそれほどの意味はないだろう。

これは個人の根性・気力・人生観の差とも言えるかもしれないが、大多数の先進国の人たちは『地べたを這いつくばって泥水をすするような最低限の生活(貧苦・飢え・不名誉・惨めさ・激痛)』をそもそも生まれてから殆ど経験したことがない、これは一部の戦前戦後を生き抜いた世代を除いての高度文明社会の現実である。

自力でリカバリーできないような場所にずどんと落ち込んで始めて気づく恐ろしさと痛み、孤立感(誰も本気では身銭を切って救いに来ない感覚)があり、自分がなってみなければ分からない死に引き付けられる精神的に危険な領域というのは、『あの時には本気で自殺を考えた』という昔語りとしてしかなかなか身近に接することができないものでもある。

そういった限界状況に陥らないために自分なりに学歴なり職能なり仕事の経歴なり貯蓄・投資なり人間関係なりの『多重防御ライン』を何とか引こうとしているのが現代人の営みの一面ではある。過半の人はその多重防御ラインのタメ(余力)によって、『死を真剣に考慮するほどの苦痛・貧苦・惨め・自己否定』から自分と家族くらいは頑張って守ることができるので、『自殺・破滅・孤立のリアリティ』は半ば無意識的に自分とは関係のない事柄として排除されやすくなる。

このことが、自分は頑張ればできた(自分にもできたことは誰にでもできるはずだ)という自信につながるが、その反作用として社会経済的に脱落したり自殺したりする者は『努力・根性・能力が足りない弱者である』という切り捨ての心理にもつながる。

自殺する人の心理には、こういった周囲からの切り捨てや蔑視の心理の臆測も関係しているが、『大多数の人ができている人並みの人生設計・人間関係・経済状況からの脱落』といったものを自他の比較や世間体(人並みの生き方)の心理でセンシティブに意識してしまう人ほど、社会経済的・対人状況的な極限状況における自殺率は有意に高まるだろう。

自殺をしない心理や世界観というのは、『なるようになるのケセラセラの心理』であり『自分は自分・他人は他人という世界観』であるが、日本社会では『いい加減さ・義務に頓着しないマイペース・他人や常識に合わせない』という生き方はそれはそれで別の意味でハードルが高く、勤勉でなく社会に貢献していないなど道徳的な非難も浴びせられやすい。

そういった心理や世界観を透徹した人は、悠々自適あるいは自由無碍の境地で『貧しくとも孤立しても天国(我が道をひたすらに歩み続ける境地)』となるかもしれないが……日本やアメリカをはじめとする社会の問題点(経済のベネフィット+メンタルの脆弱さ)は『人々の意識・時間・人生』があまりにも多く学校・企業・役所の活動に縛り付けられてしまったことにもあり、それ以外の生き方や居場所というものが実質的にかなり乏しい(経済・所属・能力評価・人間関係も密接に結びついていて、どこか一つからでも大きく脱落すれば他もダメになりやすい)ということである。

自殺と競争社会は直接的にリンクしているというよりも、競争社会による人生・活動の単位が『個人』に分解されていきやすく、個人を超えた『夫婦・家族・恋人・友人』などとの交流にしても『企業・役所など経済主体への適応(収入源)』を介在したある種の条件が設定されやすいということである。

公的年金などの社会保険改革(配偶者控除・三号被保険者の廃止など)にしても『世帯単位から個人単位への移行』によって、ますます自分の人生と経済は自分だけのものということが意識化されているが、こういった労働(キャリア)・社会保険の個人化はかつての『大家族・ムラ単位による集団労働による包摂性と連帯感』の完全な消失を意味する。

このことには、個人の自由(プライバシー)が高まり他人に干渉されなくなったというメリットも当然あるのだが、その反対に『自分と他人との絶対的な距離感(人生・労働・金銭に対する自己責任のシステマティックな明確化)』が冷徹な現実や格差として突きつけられるような感覚も強まり、『失敗・転落した他者に対する冷淡さ(自業自得で仕方がないという切り捨て)』が当たり前の道徳・因果論のようにして語られる場面も出てきた。

職業キャリアと社会保険納付歴、活動と報酬などの『個人化(自己責任の根拠となる履歴)』によって、現代人はそれぞれが『他人が介入できないレコード(記録)』を通して『国家・企業・学校のシステム』からその人生全体を監視(保護でもあるが)され続けているとも言える。このことは『生存に対する保護・圧力(お前の人生は合格点・お前の人生は落第点とでも言うような査定の圧力)』という両義性を常に持っている。

将来的には日本でも『社会保障番号(ソーシャル・セキュリティ・ナンバー)』が導入されて、私たちの人生の総体は『固有の番号と紐付けられた労働・収入・納税・保険料納付のレコード』によって制度的な保護とペナルティを与えられながら馴致されることになり、この仕組みが『環境管理型権力』として現代人の行動に社会適応・企業適応の圧力を掛けることになる。

豊かな文明社会においてなぜ自殺率が高いのかの理由の一端は、私たちの人生が生まれて出生届を出してから『査定・管理のレコード』を取られ続けていて、『人並み・標準的なライフコースとの隔たり』に対して劣等感や恥の感覚を覚えやすい方向に教育されているからでもあるが、このことは近代社会の生産性のエネルギー源でもあり、自殺リスクを生み出すとはいえそう簡単に『ダイバーシティーの全面容認』とまではいかないだろう。

生きるために生きることに喜びと感動を覚えられる太古のリズムを聴き続けることができるか……コンピューターやデジタルガジェットを駆使しながらデジタルな記録(レコード)を日々刻々と取られている私たち現代人にとっては、その太古の生命の躍動のリズムはいつ聴こえなくなるか分からない微かな振動でもある。

だがシステムや経済活動、他者との差異に囚われない生命感覚そのものの発露と実感の瞬間を逃さないことが大切だ、その美・力・技・快感から来る純粋な感動と高揚の感覚を自ら何らかの形で生み出せるようになることが、『機械的・システム的な環境管理と適応馴化の圧力(与えられた快適な環境と競争条件から外れる恐怖・惨めさ)』から私たちの心を、幾許かでも自由に軽やかにしてくれると信じたいものである。