麻生太郎財務相の発言、『産まない方が問題だ』の波紋と現代の先進国における少子化の要因

麻生太郎財務相は今の円安株高で儲けられない企業は経営者が無能か運が悪いとおっしゃるが……円安は『輸入企業・国内消費にメリットがない』、株高は『非上場企業の方が多い・官製相場で持続性が怪しい』ので、利益を出しづらい企業・業種もある。少子化と高齢化の問題・責任を比較しても意味がない。

「産まない方が問題だ」発言、麻生財務相が釈明

文明社会の発達段階において『多産多死→多産少死→少産少死』の必然的プロセスがある。このプロセスを通して『個人の自意識・生活水準の要求』は高まり、子の人権も承認されて『子孫を家・親が道具的に扱う社会システム』が禁圧され『親のための子の孝行(儒教原理)』が『子のための親の献身(近代教育原理)』に変わる。

成熟経済・先進国の少子化の原因はある意味では極めてシンプルで、『子沢山であるほど家計・老後の助けになる前近代的な農耕社会・家内労働のシステム』が崩れたからである。近代中期までは『学歴・技能を問わない労働力』の需要が旺盛であった為、農村経済が疲弊しても意欲・素直さがあれば『金の卵』として重宝された。

農村経済あるいは未成熟な産業経済(製造業中心)では『イワンの馬鹿』ではないが『上位者の指示を忠実に聞く勤勉で真面目な子』でありさえすれば、経済社会への平均的適応はそれほど難しくない。現代の消費文明社会は高度化が進む中、『消費の快適』に対し『学習・雇用・創造のハードル』は一段高くなり格差が広がった。

今も昔も子供を産んだ時に第一に思うのは『とにかく元気に育って欲しい』であるが、近代中期までは『心身が元気に育って素直・勤勉である=平均的な社会適応が容易な状態』であった。『勉強が苦手・特技がない・職業意識が希薄』でも、真面目に決められた役割をしっかりこなせば良い歴史は長かった。

近代以前の身分社会・農耕経済は確かに『身分制の差別・生産力の低さによる飢餓』があったが、『社会内における自分の立場・役割がなく必要とされない個人』は一部を除いて原理的に存在し得なかった。現代は自由で平等な個人が形成する社会だが、自己責任・格差・無視という『自由と交換の差異』に耐えられない個も増えた。

『自由と交換の差異』に耐えられない個は、国家・歴史との同一化による権威性や自尊心を求めその一部が右翼的なアイデンティティ形成に向かう。右翼も左翼も『非個人主義のコミュニティ回帰(仲間の希求)の思想』という意味で同根だ。少子化は子供の労働力化の消失だけでなくコミュニティの均質的共生の喪失とも相関する。

現在のネオリベラリズムの市場経済とグローバリズムは、先進国と途上国の労賃を漸進的にフラット化し、国内の資産・所得の格差を拡げ親世代の格差が子の教育・雇用格差に連鎖しやすくなる。元気・勤勉ならどうにかなる産業の衰退、稼げるまでの教育とマインド調整の難しさが、将来不安・生活防衛で少子化を生む問題の構造を作っている。

情報社会における情報・知識の増大で、個人が自分の人生を客観的に俯瞰したり子を産み育てる喜びが相対化されたりも、案ずるより産むが安しを抑制する面もある。『親のための子』と『子のための親』の歴史的な意識転換は、麻生太郎の『社会保障(労働力・税源)のための子』を打ち出す政治メッセージも拒絶しそうに思うが。