小中学校の『道徳教科化』についてどう考えるか?:主体的に善悪の分別や人倫の本質を考えてもらいたい

義務教育で『善悪の分別の思考力』や『人倫の本質的な理解力』を培う教科を創設したいのであれば、『道徳(moral)』という権威的な教訓や全体への従属義務の意味合いを感じる科目名にするよりも、『倫理学(ethics)』という哲学的かつ主体的な思考プロセスを重視して、善悪と自由の本質を議論する感覚のある科目名にするほうが良いかもしれない。

道徳はリージョナル(個別的)なものではなくユニバーサル(普遍的)なものであるべきだが、日本で『道徳』というと、どうしても教育勅語のような『固定された儒教的な価値判断に基づく記憶と実践』になりやすいし、旧会津藩の『ならぬものはならぬのです』というような理由も根拠も分からないが、上位者から怒られるのでとにかく守るしかないという教条主義に陥りやすい。

道徳教育には賛成も反対も両方あるが、反対する人たちは、戦前の『修身(道徳科)』の君臣秩序・滅私奉公(自己犠牲)を中心軸にした権威主義的な道徳教育のトラウマが深いのだろう。権力や上位者にとって都合の良い個人の権利を押さえつける価値観を、一方的に教えられて同調圧力をかけられるのが道徳といった思い込みが、道徳教育への抵抗感を形成する。

戦後日本の道徳は『自他の生命を大切にすること・権力によっても個人の生命や自由を恣意的に支配することはできないこと』であるが、戦前日本の道徳は『生命に執着せずに全体(国体・天皇)のために潔く散れること・天皇を最高位とする国制上の上位者に絶対忠実であること』という正反対のものであった。

端的には、儒教の『仁義礼智信』『忠恕・孝悌・勇気』などの徳目の実践こそが道徳であり、その徳目を身につけるべき究極の根拠は『主君への忠節・国体への奉仕』であって、そこに『個人・家族としての私的な幸福追求』は殆ど含まれていなかった。

究極的には、“私・個”を捨てて犠牲にしてでも“公・全体”のために尽くして奉仕せよという道徳であるが、公や全体を掌握する立場にあった政治家・軍人・官僚などは『天皇権威の名分』を嵩に着て『国民の使役・徴税』に走るばかりで、道徳と国民・個人の幸福との接点は実質的には極めて乏しかっただけでなく、最終的には国体のために役立って死ねることこそ本望(実際には個人の努力など役立たたない戦線・戦況に送り込まれた)といったカルト的な総動員の全体主義に傾くことにもなった。

敗戦による道徳規範の急転換は、それまでの日本人の道徳を根底からひっくり返してしまったところがあるが、『道徳』という歴史的な観念にはどうしても全体を個人より優先して何かを強制する、上位者(主君)に従属して忠節と勤勉を励むといった『儒教の君臣秩序・国家主義(身分制秩序)』の色彩が感じ取られやすい。

しかし、現代において求められている道徳は『犯罪(非行)やいじめの防止』『個人の幸福追求と社会の発展・秩序とのバランス』『自分と他者(社会)との間で許されること・許されないこと』『近代における自由や権利の本質とは何か』『マナー違反や非常識な言動の回避』『友達関係や男女交際における注意点』『個人の利益と社会の公益との両立の可能性』『恋愛・男女・結婚・家族制度などは今後どのようになっていくと思うか、どのような形態が望ましいと考えるか』『社会構成員の相互作用と他者への共感・貢献のあり方』などであって、『全体の秩序・国政の利益に適うような従属的国民を教条主義的な押し付けで作ることではない』のは明らかである。

その意味で、個別の道徳的・倫理的な問題が現れてくるケース(その時々の事件・事故・社会問題・国際情勢のニュースなど)を題材にして、生徒それぞれの意見・主張を募って論理的あるいは共感的に考え方を整理してみたり、それぞれの人間関係の状況で色々な立場・役割に立って演技してみるロールプレイングをしてみたりしながら、『自分が相手の立場に立った時にはどのように感じるか』『ケースワークによってどういった道徳観や善悪観を新たに持てるようになったか』『自分と他者との関係性や影響力についてどのように考えるようになったか』などを主体的かつ討論的に考えさせる教科化なら意味があるし、参加する生徒も興味を持って取り組めるのではないかと思う。