『子供はいらない』という人は人間性に乏しいのか?:子供の有無を選択可能とした人間性・文明社会

子供・結婚・仕事・政治など価値観対立が生じる雑談では『自分の生きてきた人生を肯定したい主張』を抑え『相手の生き方や選択に寄り添う発言』をするのがマナー。生き方の違う他者を否定し自己正当化を図っても仕方ない。

「子供いらない」は人に非ず?肩身の狭い女性も

人は本能だけに機械的に従う存在ではないからこそ、法律や倫理を構築し社会を形成する事に成功した特異な種。性欲も幻想なしには男が勃起しない『本能が壊れた動物』で、自己遺伝子保存はヒトにとって自然ではなく、『避妊・自我・価値観・将来予測・家族計画』などで本能が出産まで発展するかは意思的・選択的である。

『子供がいらないという人』が人ではないのではなく、各種の要因や配偶者(異性)との価値観のすり合わせで『子供がいるかいらないかの選択肢』を持てるということそのもの、『性行為と生殖行為を分離できること(避妊・中絶など選択肢を作り出したこと)』が自然と本能を懐疑可能な人間性(人為・理性)の本質だろう。

ヒトは機械的・盲目的に遺伝子プログラム(自己遺伝子保存を最優先とする行動方略)に従った人生を必ず生きるとは限らない意味で、他の動物と線引きされる特殊な意思的・自我的な動物と見なければならない。なぜヒトだけ自然選択や突然変異によらない自発的な本能抑制・避妊の選択が生まれたかは脳・文明の進化と相関。

自然・本能に従う楽園を喪失した動物としてのヒト、そこを看破した釈迦(ブッダ)は私という意識や煩悩に囚われる『自我(我)』を虚妄とし、『諸法無我』の法印を説いた。だが自我は文明社会・科学技術の発展に従って肥大、ヒトはますます自然・本能の楽園から遠い『自我・他者のストレスの檻』に自分を閉じ込めた観もあるなと感じる。