家族が増えること(子供が自立できないこと)が『老後リスク』になる現代社会:子供の幸福追求の規範化

家族の人数が多いほど安心な時代には『家父長制と儒教(親に従う子)・身分意識・第一次産業・シンプルな価値・寿命の短さ』の条件があったが、現代は全て反転してしまった。

子どもの存在が「老後のリスク」に… 家族は少ない方が「ラクで良い」と言われる時代は悲しい

現代では、家族に命令できる家父長制は男女平等(女性・子供の権利)によって反転し、生まれ落ちた階層・境遇を受け入れる身分意識(分相応の仕事・生活)は少子化を招き、元気ならできる肉体労働は衰退したり職業選択で選ばれない、自意識が強まり価値観が複雑化し、医療発達と長寿命化で老後にお金がかかるようになった。

老後に面倒を見てもらいたい親の下心は否定され、子供を産むことの選択と自己責任が強調される世の中では、『家族を持つこと・子供を増やすことのリスク化(ハードルの上昇)』が起こりやすい。家族の増加と繁栄を喜ぶ原点は相互扶助や労働力補強、世代継承で、そこには『理不尽な子供世代の義務・負担』も含まれていた。

かつては貧乏でも無知でも子供を産み育てることは自然的生理的な現象と解釈されていたので生まれた階層・境遇が相対的に惨め・不利でも、それを理由になぜ産んだかと親を責める子も論理もなく、主に子供側に責任が求められた。だが『子供の貧困・虐待・生きづらさ』を背景に自然的出産の前提にコミットしない層も出現した。

家父長制と儒教道徳は『親のために子はとにかく尽くすべし(子供が増えれば親は幸せで安心)の規範意識』を無条件に社会に浸透させていたので、親・境遇のため子が苦労したり生きづらかったりする事に納得できないという発想そのものが反道徳的思考(儒教的な大罪である親不孝・不忠)や無責任な怠惰として全否定された。

現在60代の団塊世代や50代の辺りから、『親のための子育て』から『子供のための子育て』に価値観が転回してくる。これが子供に高等教育を受けさせることや社会の平均的な消費生活ができるようにすることが親の務めというカネのかかる中流階層の子育て意識を強力に生み出すのだが、同時に父親の権威が衰えていった。

子供時代は酷く貧しかった、一方的に父親から殴られた、大学に行けなかったばかりに出世できなかった、学歴がなくていくら独学しても無教養な人物に見られた、10代で家を出されて働くだけだった等のコンプレックスから、『自分の過去の苦労・貧乏・惨めな思い』を子供にさせたくない親世代が親子関係を子供中心に変えた。

昔なら、うちは貧乏だから諦めてくれ(貧乏だからさっさと家を出て自分の人生は自分で)と言えたことが、現代では言えなくなったというか、それを先読みする人が増えたり出産の選択に基づく親側の責任を考えたりで少子化になる。老後の親子共倒れも『貧乏や限界で諦められない倫理・情緒』が関係する。

社会保障も人権保護も手厚い医療・介護もなかった貧しかった昔は、『人間の生命の価値・平均寿命』も低かったため、『本人・社会が諦められるハードル』も下がった。最小限の医療だけ受け、食べられなくなって衰弱して死んでもやるだけの事はやったと思えた。子供世代の労働には、経済成長期の追い風が吹き続けた。

2000年代以降に産まれた子供は、ネグレクト・児童虐待・貧困家庭などの過酷な境遇からスタートする子供もいるが、それ以上に中国の小皇帝ではないが『子供のための至れり尽くせりの育児(貧乏や惨めと無縁の育児)』を受ける子供が大半で、将来労働者になるための教育・自己規定が殆ど与えられていない問題もある。

親子関係や先生との関係も仲良しな友達のようなものに変わり、労働者以外の『上下関係・理不尽なやり取り』が社会から殆ど消えた。仕事でなければ『嫌な他人』とは誰も関わらない。古い欧州の有産者・貴族階級の自意識に近いが、日本の子供は現実は無産階級だから労働者にならざるを得ず、そのギャップに躓く子も多く出る。

昔と現代のハングリー精神の違いは、子供時代から小綺麗な格好をして色々な玩具を持つ、記念日のお祝い、習い事に褒める教育…現代の中流家庭の子供の境遇を見れば明らかだが、子供が『消費者意識・学力競争・教養や美意識・自己実現(スポーツや芸術)』に偏ると、好きな道で挫折した時、労働適応にストレスがかかりやすい。

老後破産は『医療・介護のコストによる長生きリスク』と『子供の自立困難リスク』の複合によって起こるが、50代以下の子供世代では更に『社会保障制度の持続困難・給付削減によるリスク』が加わる。家族成員がそれぞれ自分の生活コスト以上に稼げる能力・意欲を持っていて家族仲が良ければ、人数が多いほど安心できるが。

老後の家族関係(親子関係)にはそれまで人間関係と評価が反映される。過去の家父長や儒教のように『無条件の親孝行』の期待は難しい。家族と良い老後を迎えたい人ほど『家族から嫌われる・軽蔑されるリスク』を過小評価できないし、『(自分は支援せず)家族ならしてくれて当たり前の態度』は逆に家族対立の恐れを強める。

人間として親・子として好きな家族、素直に愛情・感謝・尊敬を感じられる世話になったと思える家族のためなら助けてあげたいと思い、できるだけの事をする人が大半だろう。家族でなくても自分が好きな人や見捨てたくない人なら援助する人も多いが、自動的で義務的な終わりの見えない過大な援助要請は共倒れになりやすい。

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