電車でイチャつくカップルを迷惑に感じるのはなぜか?:パーソナルスペース拡大と公共空間における縄張り意識

本質は公共空間でのパーソナルスペースの主導権争い。電車では儀礼的無関心で静かにする人が大半だが、カップルのイチャつき、集団の大騒ぎ、不良の屯等は『公共空間の私有感・他者の軽視』で嫌がられやすい。

駅や電車で見かけた迷惑バカップル シートで膝枕?恋人見送りホームをダッシュ!?

儀礼的無関心とは他者に直接声をかけたりはしないが、そこに他者が存在する事に最低限の配慮をした状態。過度のイチャつき・集団の騒ぎ・大声や威圧等は『公共空間におけるパーソナルスペースの平等』を崩す。『カップル・集団・不良の私的領域の拡張』で周縁にいる儀礼的無関心の人が居心地の悪さ(よそ者感)を感じる。

公共空間は私有地ではないが『過度のイチャつき・集団の騒ぎ・不良の徒党や大声』などは『擬似的・縄張り的な私有地(主導権)の範囲』を広げる心理効果がある。結果、周縁者は近くに長居しづらい気分にさせられ、遠慮・萎縮・辞去をさせられやすい。度を超すとカップルやヤンキーの部屋が公共空間に持ち込まれた感じになる。

公共空間におけるパーソナルスペースの争いを考えると、イチャつくカップルも車内の空気・メンバーを見て『安全安心』と判断してからしているはずで、ガラの悪い輩・集団がいればしない。儀礼的無関心で遠慮する相手ならカップルのスペースは拡張するが、遠慮なく声かけする(からかう)輩がいればスペースは急に縮小する。

ガラの悪い者同士でも、飲食店で店員に大声で怒鳴りつけてクレームや謝罪要求をしている輩がいても、そこにいかにもヤクザ風な集団が入店してくれば(いくら静かに礼儀正しく振る舞っていても)、急に声のトーンを落とし怒っている表情を消して速やかに退店するだろう。クレーマーの公共空間の主導権は瞬時に奪われる。

過度にイチャつくカップルも、コンビニ前(電車の入口)に屯するヤンキーも、バイクをうるさく吹かす暴走族も、大音量で音楽を外に漏らす車も、車内で集団で大騒ぎする人も公共空間で『パーソナルスペース(擬似的な私的領域)』を無意識で拡張し他者に遠慮・萎縮をさせている意味では『広義の迷惑行為』にはなるだろう。

近隣住民との生活音トラブルも、パーソナルスペースと儀礼的無関心のカテゴリーに当てはまる。共通する構造は、公共空間でパーソナルスペースを広げる言動・示威というのは、『他者の儀礼的無関心』に依存した行為であるという事、『無関心を装っている他者』が不快・怒り・ストレスを我慢してる事も多いという事だろう。

直接的に暴力や危害を加えているわけではないから迷惑行為ではない、相手も遠慮して(自意識過剰だと思われたくなくて)文句や苦情は言ってこないだろうという『他者の儀礼的無関心』への依存がある。だから、公共の場でのパーソナルスペースの拡張を安心して行えるのである。

『公共の場でのパーソナルスペース拡張』は、自分たちの場の専有感や勢力圏を広げるようなもの(個人主義・匿名社会の現代では誰も文句を言ってこないもの)なので気持ち良いものだが、我慢しない人がいて儀礼的無関心(常識的な遠慮・萎縮・羞恥)を無視して『注意・否定・批判』をされるとその気持ち良さは消えてしまう。

広義の迷惑行為は『無関係な他人が自分に注意してくるはずない(そんな権限はないはず)』という儀礼的無関心への依存がないとできない。相手・空気を選んでやめる事もあるという意味で『人目は気にしてない(誰がいても自分はやりたいからやるだけ)・相手が自意識過剰なだけ(迷惑かけてない)』の言い分は虚勢を含む。

他者の私的領域や居心地の良さを圧迫する広義の迷惑行為が嫌がられる理由の一つは、『自分たち以外の他人は配慮して儀礼的無関心を維持すべき(公共マナー・公衆道徳・人への遠慮などをうるさく言うな)』だが、『自分たちは他人に遠慮・配慮をせずやりたいように振る舞う』というダブルスタンダード性にもあるかもしれない。

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