死刑判決に苦悩する裁判員:『死刑肯定(処刑)』と『死刑否定(情状酌量)』のどちらにも傾く人間心理

人間社会は戦争・犯罪・刑罰(娯楽・公開の見せしめ)で人を殺してきたが、無条件に生存権を保障する近代の『人権思想・死刑廃止』と更生困難な悪人は吊るせの『報復・排除の本能』の葛藤は続く。

元裁判員「自分は人殺しだ」 石巻3人殺傷、死刑確定へ

煮ても焼いても食えない利己的・嗜虐的な殺人者は、息の根を止めて殺すしかないとする人間の動物的・自衛的本能は現代でも強い。『情けをかけ助けようとした悪人』が隙をついて刃物・拳銃でこちらを殺そうとし、二度の情けはないと主役が拳銃で額を容赦なく撃ち抜き処刑する図式は人間心理を爽快にさせ拍手喝采を送らせる。

死刑肯定論の原型は『情状酌量で助命しても反省せず再犯の恐れが強い悪人』は情けをかければ裏切られるから(神妙な表情の裏で舌を出すから)吊るすしかないとする図式、もう一つは『被害者遺族・社会世論の報復感情』を権力は代理的に満たさなければ社会正義の執行・信賞必罰の均衡を崩すという図式で支えられている。

死刑廃止論は『人間には生まれながらに不可侵の人権・尊厳が備わっている(人が人の生命を奪う事は許されない)の前提』を置き、『殺人者には人としての良心・共感・自制を喪失するだけの不利な事情』があったはずと情状酌量の助命要因を仮定する。『人は更生教育・愛情・承認の関係性で変われる可能性』を持つとする。

死刑肯定論における利己的な殺人犯は、『死刑で抹殺するしか社会・他者に対する脅威を排除できない(犯した罪の責任を負えない)異質な存在』であり、殺人犯のこいつはまた人を殺すかも知れないという『人間性・倫理観の完全な信用喪失と社会憎悪のスティグマ』は基本的に消えないからこの世から消すしか方法がないとなる。

死刑廃止論における利己的な殺人犯は『自分もその人と遺伝子・環境・親子関係が同じだったら、自由意思で衝動に抗えず殺人犯になっていたかもしれない連続線上の同質な存在』である。ゼロベースなら誰も望んで人殺しや嫌われる人間になどなりたくない、結果的に人殺しになる人間は概ね不幸・哀れ・惨めな側面も強い。

人間存在と人間感情をどの角度から切り取るか、被害者と加害者の存在をどう解釈するかで、人は死刑肯定論にも死刑廃止論にも転ぶ可能性を持つ。この事件でも、身勝手な元少年の悪人などさっさと殺せとも言えるが、親の愛情・優しさを知らず女に暴力でしがみつくも捨てられ、孤独に狂う野獣となった哀れな存在とも見れる。

なぜこの少年がそんな成育環境・親子関係の元に生まれ落ちなければならなかったか、そこには何の理由も必然性も選択もないが、それが人生の投企性の理不尽さであり人が耐えなければならない確率的な運命でもある。死刑廃止論には自分・知人に、人を殺人者にする確率ルーレットが回ってこなかった運の均衡を取る一面もあるか。

石巻三人死傷事件の元少年の加害者は、『結果の重大性』を見れば死刑が最高刑である限り、死刑はやむなしと言えるし、加害者が狙っていた女性を守ろうとした姉や友人を殺害した行為は許されるものではない。一方、元少年が根っからの悪人で一切の更生可能性がない存在だったかには疑問符もつく、理由なき快楽殺人とは異なる。

感情や衝動を制御できず、人を殺してしまう可能性を持つ人格構造は幼少期からの異常な虐待・ネグレクト・家庭環境によって段階的に形成されたが、概ね殺人者にはこういった一般的な家庭・親子とは異なる負の履歴がある。殺人の罪を免除する理由にはならないが『不運が重なる人間存在の投企』は恐ろしく制御できないものだ。

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