仏教・神道の神仏習合思想としての『権現』:『正法眼蔵 山水経』の主客身分以前

仏が仮の姿の神として現れる『権現』は神仏習合の思想だが、無我を説く仏教の悟りは二つ以上のものの『差異・比較の分別』を否定した無分別の境地でもある。曹洞宗の道元も『正法眼蔵 山水経』で目前の山・川は古仏の道の現れと語り、権現思想の流れで『主観・客観の分別』を否定して自己と山川に共通性を見出していた。

西洋哲学でも『主客問題』は古代ギリシアのプラトンやアリストテレス以降考えられ、スコラ哲学の神学的な『普遍論争』では実在論と唯名論の対立で『概念の実在性の有無』が論じられたが、道元は『無相の自己』という概念で客体の山・川にも主体性(人の自己との共通基盤)を仮定する独特な『主客無分別の世界観』を呈した。

『而今(にこん)の時』と『山水の有』の組み合わせにしか、人間の自己の認識は及ばないと道元は考えたが、これは『今の時間にあるモノしか認識できない(自己は今・モノ以外の場に存在できない)』というシンプルな事実の指摘であり、端的には無我・無常の道元流の言い換えのように感じる。

主客未分とか主客未分以前とかいう状態を仮定して、そこに悟り・本質・実在につながる何らかの純粋無垢な存在・経験の可能性があるように論じるという仏教関連思想のクリシェとも言えるが、『主客分離・価値判断の区別』によって人の煩悩や迷いが生まれる仕組みを捉えた考え方のパターンでもあるのだろう。

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