川崎市無差別殺傷事件のような加害者に狙われたら終わり、「ミソジニー(女性嫌悪)」の概念の解説、ドラマ「白い巨塔」の感想など

○秋葉原無差別殺傷に相当する川崎市の無差別殺傷事件だが、容疑者の男は51歳にもなって、自分の不幸不遇・怨恨を自己処理できず、無抵抗な小学生に八つ当たりする精神性が卑劣かつ未熟である。

川崎・登戸殺傷 児童ら18人襲われ小6女児と男性死亡 確保の男も死亡 (毎日新聞 – 05月28日 08:46) http://mixi.at/a8wKsO8

この種の事件の恐ろしさは、犯人が最終的に自殺する覚悟で、自分よりも弱い子供を確実に殺傷しようとする悪意と計画性がある場合、どうやっても防御や対抗が難しいことだろう。保護者の外務省職員の男性が亡くなっているが、保護者でなくてもその場に居合わせたら、素手で何とか制止しようとして殺害されるリスクは低くない。

現代の先進国では犯罪者・粗暴者以外に日常的に武器を携帯している人はまずいないので、本気で人殺しをするつもりの狂人が、鋭利な刃渡りのある刃物で襲いかかってくると、有効な抑止力はほぼない。手近に鉄パイプや木材など長さのある武器が偶然落ちていればいいが、刃渡りのある包丁は一撃で出血性ショックで意識喪失する。

社会憎悪・疎外感や幸せそうに見える人への怨恨を抱えた潜在的な無差別殺傷の予備軍も多くいるだろうが、「他者の殺傷+自殺」と「自己の救済」を結びつけるテロリスト的な発想は、論理矛盾で本質的に何の解決も救いももたらさない。決定的に絶望して無実な子供・弱者を殺害しようという悪意が芽生えたら自決すべきだろう。

○「ミソジニー(misogyny)」という「女性・女性らしさ」を嫌悪したり蔑視したりする概念は良く知られていて、ミソジニーの対義語は一般的には「男性・男性らしさ」を嫌悪・蔑視する「ミサンドリー(misandry)」とされる。

ミソジニーには、女嫌い・欲求不満・セクハラ・制度的差別などの多面性がある。

ミソジニーというと、男性だけが持ちそうな心理・感情なのだが、女性が抱くミソジニーというのもある。女性の女性に対するミソジニーとは、女性の身体に対する羞恥心、腕力の無さに対する否定感、女性であることによる不遇感・不利益感、男性に生まれれば良かった(女性は嫌・損なことばかり)などに根ざす感情である。

「ミソジニー」の対義語は一般には「ミサンドリー」となるが、「女性・女性らしさ・可愛さ」などを特別に愛好する「フィロジニー(philogyny)」の概念もあり、これもミソジニーの対義語になる。

イスラム圏などは宗教的社会的ミソジニーを内包するが、フィロジニーとミサンドリーの方が先進国では勢力を強めてきた。

○「白い巨塔」は現代のエビデンスベースドな医療観からは納得しがたいストーリーだが、財前教授はなぜただOKを出すだけでいいのに「追加のPET検査・肝生検」を渋ったのか保身面からも謎だ。財前がドイツに行っていないのだから勝手に検査して対処すれば良い気もするが…旧来的な医学部の権威主義・無謬主義のドラマだ。

全体のストーリー構成は微妙に今風にアレンジされているが、東教授のキャラクターは今回の寺尾聰よりも前回の石坂浩二のほうが、財前との対立軸を面白く見せられた気もする。

今回の寺尾さんの東教授は、初めから「ただ財前嫌いのキャラ」で「師弟関係の崩れのプロセス」がなく、東の財前に対する愛憎の葛藤を描けていない。

医療裁判の内容自体が現代の医療現場では争点になりにくいもので、「昭和期の国立大医学部教授の無謬主義(医学的・客観的な事実そっちのけで私が言うことが常に正しいで検査もしない)」のリアリティーが失われている。「俺の診断が間違っているのか?」と言われても、大雑把な見立ての問題でなく検査の必要性の問題である

○岡田准一の『白い巨塔』は『医学部教授の権威・野心からの失墜』を描ききれない不完全燃焼感があったが、時代的に唐沢版の『財前教授の総回診…(大名行列の権威表現)』などが時代錯誤になったのもある。

岡田准一『白い巨塔』唐沢寿明版との“決定的な違い”に反響続出「印象が全く変わるね」 http://mixi.at/a8yCsuL

天才外科医財前と財前を育てた師の東教授の愛憎劇のプロセスが省略気味だったのも残念だった。

脚本の問題も大きいが石坂浩二が演じた東教授の方が「過去には良い師弟関係があり財前の外科医の腕を認めながらも、次第に対立が深まる(財前に敗れて送迎もなく寂しく大学を去る)過程」が良く描けていた気がする。

放送時間の短さがあり、どうしてもストーリーが駆け足になってしまうが、「財前と里見の友情にフォーカスした作品」として岡田版の良さもある。

唐沢版では柳原医師(伊藤英明)の「裁判で偽証している罪悪感に揺れる心理描写」も上手く、看護師の女性との恋愛も挟みながら「財前の嘘を証言する過程」に説得力があった。

○強風で倒れた看板で脊髄損傷して車椅子生活になったというのも猪狩ともかさんのある種の運命なのだろうが、人の生の明暗・運気は常に紙一重ではある。

仮面女子・猪狩ともか、車いす生活の理解促進願う 横になる休憩が「必要不可欠なのをわかってもらえたら」 http://mixi.at/a8waa2f

脊髄損傷を負っても、前向きに交友関係を広げて、仕事にも私生活にも精力的に取り組んでいるのは、生来の気質・性格や今までの環境もあるのだろうが、素晴らしいことだ。

車椅子生活の疲労感や休憩の必要など、経験のない人には分からない事も多いが、自分にできる事を見つけて取り組む姿勢は普遍的な処世にもつながる。

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