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食事と健康(肥満・生活習慣病のリスク)の相関をどう考えるか:ジャンクフード・炭酸飲料は不健康な食事とされるけれど…

健康な食事といえば『野菜・果物の割合が多くて栄養バランスの取れた食事(味付けの薄いメニュー)』がイメージされ、不健康な食事といえば『炭水化物・脂質の多いジャンクフードやインスタント食品、スナック菓子、清涼飲料水(味付けの濃いメニュー)』がイメージされるが、ここには食の健康にまつわる一つの錯誤も生じやすい。

野菜・果物をたっぷりと摂取する健康的な食事であれば『一度に食べる量・一日に食べる頻度(回数)』が相当に多くても構わないという錯誤である。一回の食事に山ほどの沢山のメニューをお膳に並べ、丼茶碗に山盛りのご飯を何杯もお代わりしても『不健康な食事』でないのだから健康には悪くないというような考え方をしていれば、いくら葉物・緑黄色野菜・根菜・果物をたっぷりと摂取して肉・魚料理を合わせて食べても、カロリーオーバーで肥満になったり長期的には健康を崩しやすくなる。

不健康な食品には課税必要、「たばこより危険」=国連報告官

先進国の食生活では少なめに食べていても『必須栄養素の不足』は起こりにくいが、腹いっぱいになるまで食べるのを常としていれば『必須栄養素の過剰』は極めて簡単に起こるので、栄養バランスの摂れた手料理でも品数や分量が多すぎれば肥満・生活習慣病の原因となる。

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『善人』の増えた現代の先進国と『弱者への同情』を嫌ったフリードリヒ・ニーチェ:現代の善人の争いを回避する優しさ・弱さをどう捉えるか?

昨日書いたドラマ『明日、ママがいない』の記事では、『他者の不幸・苦痛に対する想像力や同情(共感)』の弱さによって、新たないじめ・差別が誘発されるのではないかという危惧について触れた。

だが、コメント欄において、『自分よりも不幸な者を見ることによる安心感』『伝統的な日本の階級社会(身分の違い)の名残と意識』『キリスト教の博愛・弱者救済の倫理観』『人間社会の個人差や自意識に基づく差別・いじめの普遍性』について読み、ふとニーチェの同情否定の思想をイメージしたので書き留めておく。

F.ニーチェの実存主義哲学は、『反キリスト教(弱者貧者の道徳的地位の否定)・反社会福祉・自己肯定の超人思想』に象徴されるように、『ストレートな強さ・美しさ・豊かさ』を賛美する真の貴族主義を掲げた文学的・美学的ロマンスの思想である。

弱くて貧しいが故に正しい(強者・富者は道徳的価値は低い)という大衆の数の論理に裏打ちされたキリスト教道徳を反駁して、強くて美しくて豊かであるが故に正しい(それはあまりにも自明であるが故にそうではない者のルサンチマンを刺激する)という人間の本能・知覚・直観に裏打ちされた古代ギリシアの貴族主義に回帰するかのような『超人思想』を喧伝した。

私は強くて美しく豊かであると思える『超人(ツァラトゥストラ)』を目指し、自分の弱さ・不遇に押しつぶされるような『どうせ自分なんて・今とは違う人生があれば・誰かが助けてくれれば』という自己嫌悪や道徳の逃げ場を閉ざしたニーチェは、ナチズムとも接合した優生主義者(権力志向の反ヒューマニスト)として批判されることもある。

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オウム真理教の平田信の裁判開始:風化していく地下鉄サリン事件の記憶とカルト宗教の脅威

宗教団体が一般市民を対象とする無差別テロを仕掛けた『地下鉄サリン事件』が起こったのは1995年3月、阪神淡路大震災が発生してから僅か2ヶ月後の大惨事だった。世紀末が近づきバブル崩壊後の不況に喘ぐ日本の世相を更に陰鬱なものとしたが、それだけではなく当時のマスメディアはお祭り騒ぎのようにオウム真理教の長時間の特集番組を組み続け、麻原彰晃逮捕の当日までメディアの多くの時間がオウム関連にジャックされているような異常な状況であった。

当時の僕は高校生だったが、連日のようにワイドショーや特番にオウム真理教の幹部が出演しており、上祐史浩広報部長や青山吉伸弁護士が『尊師(麻原)の無実』と『教団の安全性』を饒舌なまくしたてるような口調で訴えかけ続け、オウム糾弾の報道に対しては名誉毀損罪をはじめとする法的な措置を取ることを辞さない姿勢を示していた。

教団側がむしろ国家権力や米軍から弾圧されているという被害妄想を中心にした弁明だけではなく、オウム真理教の教義と目的、不気味な修行方法と霊感商法、麻原を頂点に置くヒエラルキー・幹部のホーリーネームや高学歴などがあまりに詳しく報道され過ぎ、オウム批判なのかオウム宣伝なのか分からなくなる有様であった。

最初はオウム真理教の名前くらいしか知らなかった人までが、教団の主要な幹部の顔・名前が識別できるようになったり、教団内の特殊な教義、女を使った勧誘法や麻原の煩悩まみれの生活ぶり(最終解脱者は何をやっても精神が汚れず欲望が逆に清めになるらしいがw)を知るようになったりした。上祐史浩にファンがついたりグッズが販売されたりなどの、事件・騒動に便乗した悪ふざけの動きも出たりしたが、こういった動きは海外の凶悪犯罪者や日本で英国人女性を殺した市橋達也の事件でも起こったりはした。

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映画『47RONIN』の感想

総合評価 76点/100点

ハリウッド版の『忠臣蔵(赤穂浪士)』だが、冒頭の浅野内匠頭長矩(田中泯)の狩猟に巨大なモンスターが登場するように、VFXの激しい剣闘を楽しむためのファンタジーアクション映画として再構成されている。天狗に育てられたとされる頭部に傷を持つカイ(キアヌ・リーブス)は、天狗の里から逃げ出す途中の山中で行き倒れになっていたが、浅野長矩の計らいで一命を助けられる。

しかし、日本人と白人の混血であるカイは成長すると共に激しい身分差別を受けることとなり、穴蔵のような粗末な小屋で動物以下の厳しい生活を余儀なくされる。天狗より教わった剣術と秘術は強力なものであり、怒涛の勢いで突進してくるモンスターを狩りに出かけた狩猟では劣勢に追い込まれた侍に代わって討伐する実力を示す。だが、自らは狩猟を許されていない身分であり、その手柄を助けた侍(自分を日頃から侮蔑している侍)に譲ったりもする。

浅野長矩の娘のミカ(柴咲コウ)とカイは幼馴染であり、カイとミカはお互いに思いを寄せ合っているが、領内の誰もカイを『侍(武士)』として認めることはなく、最下層の身分として遇されるカイがミカと一緒になることは許されなかった。播磨国赤穂藩の豊かな所領への野心を募らせる吉良上野介(浅野忠信)は、不思議な呪術を駆使する妖狐のミヅキ(菊地凛)を側室としており、ミヅキの呪術を用いて浅野内匠頭を乱心させ、将軍・徳川綱吉が宿泊中の屋敷で自分を斬り付けさせた。

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フジテレビの『ほこ×たて』のやらせ問題・内部告発が意味するもの:事実を隠せない時代の到来

攻めと守りの立場になる『二つの技能・商品・能力』などをぶつけ合って、どちらが優れているかを競い合うフジテレビの人気番組『ほこ×たて』でやらせが発覚した。『スナイパーVSラジコンカー』で、実際は日本企業のラジコンボートが3連勝してあっさり買ったのだが、それでは番組の構成上面白くないというので、ラジコンヘリやラジコンカーとスナイパーとの対決も見せられるように順番を入れ替えて撮り直し、日本企業側は2連敗の後に3連勝して勝ったという内容になった。

また実際に行われたスナイパー軍団のルール違反(初めの1分間はラジコンに弾を当ててはいけないというルールの違反)には触れられず、最初の2戦は実力勝負でラジコンが負けたという設定にされたのが、日本企業(ヨコモ)の担当者は気に入らなかったようだ。

ヨコモの担当者が自社のサイトに、『あまりにも曲げられて作られていたため、編集責任者に対し「反則した相手が負けになるのであればまだ納得出来ますが、もしこの内容で放送された際には、事実を発表します」と忠告し、内容を偽って作らないよう要請していたのですが、非常に残念な事に偽造編集したものが放送されてしまったのです』というコメントを出して、『過去に撮影された鷹・サルとラジコンとの対決にも不正ややらせがあった』という告発をしたために騒動が広がりを見せることになった。

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マナーと法律の境界線が消える。“他者からの迷惑”に我慢ならないが対話ができないという時代の環境管理型権力

戦後の無秩序な焼野原から高度経済成長期の工業の隆盛を経て、サービス産業・知識情報産業・人材管理が発達した現代に至ったが、私たちは時代が進むにつれて清潔(潔癖)になり異物・暴力に過敏になり、『自分ではない何者か』に自分と家族の権利や時間、健康、財産などをわずかでも傷つけられることに我慢できなくなり、『伝統共同体(ゲマインシャフト)の絆』はほぼ崩壊してお互い様の精神も薄れてしまった。

一切の汚れや乱れ、リスクを許容できないほどの『予定調和的な約束された路線』を求めるようになってしまった先進国の人間は、逆説的に『生存・生殖へのハングリー精神』を喪失して、『約束された人並みの安定した路線』を歩むための参加資格を得られないように感じるというだけ(経済社会・企業雇用・公務員職などのキャリアの正統性から逸れたと感じるだけで)でもう私の人生はダメなのだと自殺してしまうような脆弱なメンタリティが世を覆っている。

地面にわずかでも落とした食べ物は汚いから捨てなければならないし、パッケージが少しでも破損した商品は不良品だとクレームが来て、わずかでも形が変形したり黒ずんだ野菜・果物は市場で安く買いたたかれて、新品の洋服が少し泥や食品で汚れようものならヒステリックな悲鳴を上げなければならない、外のトイレは完全に清掃された新品に近い洋式トイレでないと安心して用も足せない(和式便器は子供にはもう使い方もわからない)、子供達の目線からすべての性・暴力の表現は消し去られなければならない……もはや自然の大地や生きるための欲望に根差した人間のバイタリティを発揮できる余地・足場(共同性・本能性の立脚点)が『快適でクリーンな現代社会』から失われようとしているように見える。

そろそろ歩きタバコを「法律」で規制すべきか?

無論、WHOや欧米先進国が主導する国際的な禁煙運動・健康増進運動の流れには抗い難いし、健康被害や煙害、火事の原因、保険負担増となるタバコを規制すべきとする疫学的・科学的・心情的(非喫煙者の心情)な『正論』にまともに反論することも難しい。

自由主義社会では『愚行権,不健康な飲食物や嗜好品を摂取する権利(食事と運動の健康的なライフスタイルを実践しない権利)』はあるはずだが、タバコは『有形・有害の煙』を風で周囲に飛散させたり『危険な火』を用いるので、『本人自身がすべてのリスクを引き受ける嗜好品』とするには喫煙者だけが集まる隔離型の喫煙専用スペースを準備しなければいけないという論理に行きつく。

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