矢口真里の浮気報道と格差婚の心理2:男性と女性の家庭の性別役割拡散と男女同権化

前回の記事の続きになるが、近代化の影響が弱いかつてのムラ社会で経済力のない女性が不倫などをすれば、夫と一族から『すぐに家を出て行け』と叩き出されて離婚され、噂話が駆け巡る狭い村では居場所がなくなり、法的な保証も安定的な雇用・給料もないまま厳しい世間に放り出されることは確実であった。

性的な道徳観(貞操教育の効果)や夫が好きで裏切りたくないという気持ちもあったかもしれないが、それと合わせて平穏無事に生活を続けていくためには大半の女性にとって、不倫の裏切りは(一時の快楽・楽しさと引換えにするには)余りにハイリスクであり、もし発覚してしまうと恐ろしい目に遭うことだったのである。

翻って現代の先進国では、若年層において就職率・平均所得における男女逆転が起こってきており、矢口真里の結婚は特に夫婦の年収に大きな格差(矢口が数倍の年収を稼ぐ格差)がある『格差婚』として取り上げられ、夫はバラエティ番組で『年収が妻に及ばず高額な出費はいつも出してもらう自虐キャラ(半ひもだと自己言及するキャラ)』をおどけながら演じていた。

こうなると、『男性の貞操義務』よりも『女性の貞操義務』を厳しく取り扱うことができるための現実的な基盤・根拠である『男性の経済的優位性・扶養義務の履行性=それに対する女性の受け身性』が無くなってしまう。

昔でも『誰のおかげで飯が食えているんだ』は夫婦関係を破綻させる決めてとなる禁句フレーズであったが、現在では禁句であるか以前の問題として、『別にあなたに一方的に食べさせてもらっていないしそこまで言われる理由はない(私もフルタイムで働いてて折半に近いくらいの負担をしているんだし)』という夫婦関係のほうが増えている。

不倫・浮気をしないにしても、『いざとなったら離婚もできる(バカにされたり理不尽な仕打ちをされてまで結婚を続けるつもりはない)という女性』は過去よりも格段に増えているわけで、『浮気は男の甲斐性・気に入らないならさっさと出て行け』など、現代では化石といえる男尊女卑むきだしの男性(妻を所有物のように見なす家長)の主張はあらかじめ状況的にできなくなっている。

家父長制が残る男性主義社会では、男性の経済力と妻子の扶養義務が『男女の貞操義務の受け取られ方の差異』を社会的・道徳的に生み出していたのだが、不倫・浮気は常識的(一夫一婦制的)には許されないことだとしても、現在では格差婚のように男性の経済力のほうが落ちる(女性が一方的に扶養されておらず自分のキャリアがある)ケースにおいては、『妻となる相手の女性の誠実な気持ち・堅実な家庭設計の継続・好きだという感情・不倫はNGという倫理観』だけが頼りという部分はある。子どもがいない二人だけの夫婦(二人の気持ちだけで別れることがしやすい生活状況)では、なおさらそうなりやすいだろう。

女性の経済力が優位の場合、芸能人のケースでは社会的制裁による『出演機会減・収入減のリスク』はあるかもしれないが、不倫したことに対して『あなたにもう魅力を感じられなくなったから・あなたが私を許せないなら一定の条件を飲んで別居(離婚)にも同意するから』という風に開き直られてしまうと、『男の立つ瀬・相手に対する断罪や和解の訴求力』が殆どなくなってしまい、相手が婚姻におけるルール違反をして責められるべきなのに、自分のほうが自信がなくなり落ち込み続けるということにも成りかねない。

経済的理由にせよ精神的理由にせよ、『相手から別れられたら困る・自分が折れてでも婚姻を継続したい』という人のほうが劣勢や苦境に立たされやすくなり、それは『無責任に裏切った相手をバッシングしてくれる世論の後押し』があったとしても、傷ついた自分の主観的な心情としてはそれほど癒されるものではないかもしれない。自分なりに相手に尽くしていたり相手が快適に暮らせるために気遣いしていたつもりの男(女)にとっては特に心情的な傷つき、裏切られたことに対する怒りは容易には癒し難いものとなる。

男性は一般的に自分よりも『所得水準・社会的地位・インテリジェンス』が高い女性を敬遠するというか、恋人や配偶者には選びたがらない傾向があり、女性はその逆で、ある程度のお金持ちやエリートであっても自分よりも社会経済的に優位な男性を求めやすい傾向があるという。『女性に押さえ込まれている感覚・相手に継続と別れの選択肢をグリップされている感覚』があると、何とか普段は自虐キャラを演じられている人であってもEDや抑うつ状態に陥りやすくなるとも言われる。

それが明治期以降に『女大学』に象徴される三従の道徳を課せられていた女性の立場なのだから、これからはそういった肩身の狭いような立場になる男性が増えてもおあいこといえるのかどうか……男女の歴史的・ジェンダー的な立場の入れ替え可能性(男女同権社会における個人単位の評価)は、フェミニズム的には正論ではあるのだが、生物学的には男性はそういった婚姻状況下における適応度が未だ低いのかも。