近世に現れた“武士を模倣した周縁身分(制外者)としてのヤクザ”と近代初期に現れた“肉体労働者の元締めとしてのヤクザ”

昭和期までの日本ではヤクザと警察は、『歴史的な侠客が地方自治(労働者管理・争訟調停)に果たしていた役割』や『裏社会(重犯罪の容疑者)の情報源の必要』もあって持ちつ持たれつの関係だった。ヤクザのそもそもの起源は戦国期の既成秩序からはみ出した異端者である『カブキ者』とされるが、江戸期に生まれた『武士を模倣した侠客集団(食い詰めた牢人・町奴・博徒の非合法な武装集団化)』が近世ヤクザの原形とされる。

『公権力(暴力独占の政治機構)に対する反抗と模倣』という二重基準を持ちながらも、各藩が財政難に陥った幕末には十手を渡されて警察活動の一部を委託されたりもした。江戸時代末期の混乱期(藩の衰退期)には、多数の子分を抱えるヤクザの親分が実力行使の警察業務を委託された。

これは田舎の武州から出てきて、武士に憧れていた近藤勇・土方歳三が局長と副長を務めた無頼の剣客集団『新選組』が、幕府から『京都守護職・旗本』に任命されたのにも似た構図であり、新選組の『裏切り・離脱』に対する即時切腹の罰則を定めた『局中法度』なども極めてヤクザ的なものであった。

というよりも、新選組や侠客集団(ヤクザ)の側が武士の規範性を模倣したのだから、『謀反・脱藩(主君に対する不忠行為)』が死罪に相当するという原理原則に沿ったものと解釈できる。義理・忠誠を欠いたり大きな失敗をすれば『指を詰める』という慣習も、単なる謝罪や補償だけでは不義理(規範逸脱)は許されることがないという武家社会の慣行(裏切り・失敗に対する他の家臣・子分への見せしめ)を模倣したものである。

昭和中期までは、『ヤクザ集団の武力(暴力)の強さ・勢力の数』を公権力・政治家・企業が、治安維持や地方自治、裏社会の秩序維持(親分・子分関係による監視体制)、高度経済成長の開発計画(開発反対の勢力・個人に対する威圧や脅し)に利用しようとする側面があったし、昭和期の政治家が参加した保守派の右翼団体の源流には、思想性を持つヤクザの親分も関わっていることが多かった。

ヤクザは世界的に見ても稀な『表社会に事務所を構えられる非合法集団(公権力による暗黙の存在承認を得た暴力集団)』として存続してきたが、そこには権力・企業・資本に『非合法な暴力装置(法律や常識が通用しないか解決に時間がかかる領域における強制力)』として利用されてきた歴史がある。海外の非合法集団であるマフィアは地下に潜行して組織化・活動するしかなく、表にその存在や組織を知られれば即座に逮捕されることになるため、日本のヤクザと同列に考えることは難しい。

神戸(兵庫県)の港湾労働者を管理する元締めから発展した山口組、筑豊(福岡)の炭鉱労働者・輸送業者を管理する暴力集団から発展した遠賀川周辺の川筋者といった辺りが『近代ヤクザの原形』とされる。結局、近代ヤクザとは法秩序の枠内に収まりきらない無頼漢・荒くれ者・刺青者(前科のある半グレ)が多かった当時の肉体労働の現場を管理指導する強制力として要請されたところから始まっている。

こういった荒っぽい腕力自慢の男たちが集積した昭和初期の肉体労働の現場では、喧嘩や恫喝、虐待などの暴力沙汰が氾濫しており、労働者が団結して騒動・サボタージュを起こすことも多かったため、究極的には労働者の短気・暴力を上回る暴力(ヤクザ集団)による抑制力(押さえつけ)が求められていた事情がある。

炭鉱や港湾、土木の労働争議などでは、背中一面に刺青を入れたふんどし一丁の荒くれ者たちが、火薬や石塊を投げ合ったり刃傷沙汰に及んだりすることもあり(そういった当時の記憶に基づく炭鉱労働・労働争議の版画絵などもあるが)、元々の労働条件の過酷さ・薄給もあり、『落ち着いて話し合えば分かる・法律に基いて粛々と処理する』などの現代の法治主義の常識が通用しにくかったこともある。

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