文章を書き慣れれば、主観(自分の視点)を交えない『ファクト重視の文章』のほうが簡単に書ける。

ニュース記事やビジネス文書、論文のようなフォーマルな文章は、『自分がどう認識してどのように考えているのか』という主張をせずに、『客観的なファクト(事実)』だけを抽出して淡々とフォーマットに従って書けば良いので、実を言えば『楽に書ける文章』のカテゴリーに当てはまる。

ビジネス文書に「私は」はいらない

繰り返し『型』を真似して練習すれば概ね誰でも書けるようになり、個人ごとの文章表現力や語彙・比喩の差も分かりにくいのが、『私は』が要らないファクトを簡潔な表現で伝えるための文章なのである。

その意味で、私がどう思ってどのようにすれば良いと考えているのかというオピニオン(意見)やフィーリング(感受性)の部分を抜きにして書く『客観的な文章』は、平板な意識のままルーティンワークで書ける文章なのだが、往々にして『読んで面白いタイプの文章』ではないという特徴もある。

客観的な文章は、他者の心(感情)を刺激する力が弱くて、一般的に無機質な印象を読む人に与える。つまり、何かの情報や説明を知りたいというニーズにピンポイントで答えるための文章なので、書いている人の顔や温度が伝わらず、それらをむしろ隠すべき不要なノイズと見なすことになる。

客観的文章の書き手は、単純に情報処理(情報伝達)の役目を果たすのみなので、『誰が書いても同じ情報が早く伝わるか否か』ということのほうが大切で、作家のように『その人らしさのある凝った文体・表現』はマイナス評価になるだけである。端的には、『5W1Hのレポート』を人間らしさの主観性や主張を交えずに分かりやすく書ければ良く、文章を書く上での悩みや難しさがそこにあるわけではない。

更に言えば、客観的文書というのは『文章の表現技術そのものの価値・芸術性』は低く、『文章が伝えるコンテンツとしての情報・知識・数字』のほうに価値がある文章である。文章力を磨くというよりは文章力をわざと自己制約しながら、『自分が書いた文章』と『他人が書いた文章』との差異をできるだけ目立たせないようにすることが課題となる。そこでは、『伝えるべき情報・数字に対する誤解』が生じない簡潔な表現と解釈の多義性を許さない断定が求められる。

作家や評論家のように文章を読ませることで相手の感情・主張を揺り動かすというのは、『客観的な文章』よりも何段階も高度な文章の表現力と構成力がなければならない。

『私は~』を含む文章は一見すると、小学生から書き慣れている幼稚で簡単な感想文のように受け取られがちだが、実際は大人になっても『私は~だと思う・~だとは思わない・~すべきだと考える』というオピニオンの個性がある文章のほうが、『必要性がなくても読みたいと思わせられる文章』になり『エッセイ・ストーリーとしての商業価値』も生まれやすくなる。

客観的なファクトだけの文章は、単一の事実をストレートに伝える文章の『コピー&ペイスト』のようなもので、新聞記事やビジネス文書を何度も読もうとする人は殆どいないが、例えば『ファクトについてのオピニオン』であれば、mixiニュースの日記やBlogos、ハフィントンポストなどのように、色々な人の主観的なオピニオンを読みたい人は多いのである。

文章力といわれる語彙の多さ・表現技法・構成力の巧拙は確かにあるのだが、『その人らしさ・その人の価値観を感じさせる主観的で熱量のあるオピニオン』は多少文章が下手であっても、主張内容が反発・不満を感じさせても、人間にその文章を読みたいと思わせる力を内在している。

実際に起こってしまった客観的事実は一義的だが、主観的意見は多義的で多様性を持つからこそ、その人にしか書けない視点や感想、主張の面白い文章(読みたい文章)が生まれる面もある。

『私は~』が含まれる文章は主観的だから幼稚でレベルが低い、『私は~』を含まない文章は客観的だから知的でレベルが高いというのは、『ファクトと直結する情報・知識のニーズ』だけに注目した一つの基準に過ぎない。総合的な文章力の高低を言えば、『人にその先を読みたいと思わせる書き手の主観・作為の機能している文章(読み手の精神状態に作用することができる文章)』のほうが、練習を重ねた人でもそうそう機械的・反復的には書けないタイプの文章である。