原発事故の放射能汚染土の『中間貯蔵施設』も原発の放射性廃棄物の『最終処分場』も、

地方の海岸部の田舎から中央の都市部へ電力を大量に供給するための『原子力発電の国策』の結果として強く建設が要請されている施設である。

「地元が自ら行動を」中間貯蔵施設で環境相発言

いわば『原子力発電の原理的な不完全性(事故率をゼロにはできず放射性廃棄物の最終処分法が確定していない)』にまつわる諸リスクの最終責任を誰が負うのかという非常に重い責任が突きつけられている状況である。福島第一原発事故後の『東電の自己処理能力・損害賠償能力』は資金面でも技術面でも拙劣な限界を露わにしてしまい、結論からすれば『国家』以外に原発の最終的な安全管理責任や事故処理責任(賠償責任)を負うことができないことが明らかになった。

客観的に見れば、福島第一原発事故の大量の『汚染水』さえ、現在の技術では満足に制御することもできず、毎日のように放射性物質で汚染された水が海洋に流出して、水面下数十メートルにホットスポットを作り、『東北地方の東海岸部の漁業』に致命的な風評被害を及ぼし続けているのである。

日量約60トンの汲み上げができれば海に流出するのを防げるというが、『汚染水の容量』はどんどん増えており、膨大な数のタンク建設と高速度の汚染水処理(無害化)という費用的・技術的にも難易度の高いタスクが山積みになっている。

石原伸晃環境相の『福島県をはじめ皆さんが、自ら行動するという認識をしっかりと持っていただくことが重要だ』という発言は、安全神話を信じ込ませて増設を続けた原発にいざ大きな事故が起こると、『最終責任は国にあるという建前』を示しながらも『実際の負担・危険を引き受けるのは原発利権(原発雇用)の恩恵を受けていた地域の人々だという本音』を覗かしたようで、政府の原発に対する認識の低さに落胆させられる。

原子力発電が『暫時的・経済支援的なエネルギーミックス』に必要な発電形式であることは確かだと思うが、『巨額の補助金・原発雇用(高い給与水準)・原発雇用の周辺経済』を理由にして、これだけ国が経済面で手厚い支援をしてきたのだから、原発事故やその処理・復旧に対しても原発を受け容れた地域の人たちが危険を引き受けて負担するのは当たり前という論調は、御用学者・プラント会社を動員して『国策的な安全神話』を広めた国としては無責任な態度に見える。

『もしかしたらの事故リスク』と『事故後の地域への影響・事故後に地域民が果たすべき役割』を十分に説明して納得してもらった上での原発建設であったのなら、石原環境相の発言にも一理あるが、実際にはそうではなく『原発の将来性・安全性貢献性(日本経済を支える電力を生み出す地域になるなど)・収益性(波及的雇用による地域活性化)』といった原発の魅力的な部分だけを誇張して、『もしもの事故の話・将来の廃棄物処理の話』を反対勢力を刺激するから(賛成の人も迷い始めるから)という理由でタブーにしてきたという後ろめたさもあるはずである。

安倍政権は原発ルネッサンスの夢を再び盛り返して、原発インフラをトルコや中東、中央アジア、ブラジルなどに売り込むような計画を立てているが、『原発の販売元としての責任・アフターケア』をどう考えているのかという試金石が福島第一原発事故になっているように思う。現状では自分が日本から原発インフラを購入する国の代表だとすると、果たして日本を信頼して安心して買える商品なのか(訴訟になった時のリスク管理で契約上の引渡し後の免責は非常に大きくとっているだろうが)という疑義も当然にあるだろう。