建国記念日と日本成立にまつわる歴史観・共同幻想:政治的な愛国心の問題と自然発生的な愛国心の涵養

史実(実在する王朝・天皇)ではなく記紀の神話(実在しない神武天皇)に基づく『建国記念日』にしても、『日本』という国号そのものが使用され始めたのが飛鳥時代の7世紀後半であることを考えると、『仮想敵な国家の歴史(伝統)の長さ』の喧伝としての意図を持ち、国民に『天皇の祖先の出現と日本の国の成立が同じ(天皇なくして日本なしの国家観)』だとする神話的な共通認識(森喜朗元首相の神の国発言が完全に荒唐無稽だとは言えない根拠)を形成させるものになっている。

『政治的な愛国心』にはどうしても『外部(仮想敵)との戦い・排他的な結束』を前提としやすいリスクがあるが…

日本が有史以前の昔から、天照大神やニニギノミコトの血統を継ぐ神々の子孫が統治する国としてあった『神国(普通の人間の権力者が作った国ではなく神の子孫が作った国体は永久不変のもの)』だとする共同幻想に訴え掛ける情緒的・歴史的な魅惑が、建国記念日のバックボーンとして絶えずある。

天皇家の神話的な支配王朝の正当性と近代国家の日本の歴史性を重ね合わせる『皇国史観』は戦後日本において乗り越えられたと思われている歴史観だが、そうであっても日本史は『歴代天皇の系譜・元号・権威』と切り離して考えることが難しい事情がある。

『天皇制』を日本の国体の本質に据える皇国史観とその下で導き出された国民の自発的とされる愛国の現れの忠誠・貢献の集積が、アジア太平洋戦争の愛国心教育に基づく絶望的な自己犠牲の強制、アジア全域に対する日本人の特殊的優位の感情(遅れているアジア諸国を日本が支配し主導する大東亜共栄圏の夢想)を生み出していったわけだが、『自民族中心主義(仮想敵の設定)』に傾かない自然な愛国心を涵養して、国際的な協調路線を歩むためにはそれ相応の歴史観・価値観の下地がなければ難しい。

政治的に強制される愛国心は往々にして、『外部(仮想敵)との戦い・排他的な結束・やらなければやられるといった過剰防衛(お互いに挑発・警戒・プロパガンダ・軍拡を続けることで本当の戦いにまで発展する)』と結びつきやすいものであり、そうでなければ他人にまで愛国心や国家・戦いのための自己犠牲を要求する必然性が生じないからである。

近代以降の人為的・政治的な愛国心は、生まれ育った郷土の景観や風土が美しいとか、親しみのある家族や同胞と仲良く暮らしていきたいとかいった自然発生的な愛着・好感・安らぎに基づいた心情には結びつきにくく、そういった自然発生的で共感的な愛国心(郷土愛・同胞愛・棲み分け)というものは強制されなくても誰もが心に抱くことができるものである。

政治的な愛国心は、『仮想敵を憎み嫌う集団闘争に参加する世界観(国家・民族を超えた国際協調や共生・共感の障害物)』や『自民族と異民族の境界線(利害対立)を強調して自尊心・対決姿勢を強める自己アイデンティティ』を強化する傾向がある。

韓国・中国・シリア・中央アフリカなどの右翼的な集団や戦闘集団にも顕著であるが、仮想敵とされる相手の立場にも立った国内での冷静な議論や共感、交渉の姿勢があっても、『お前は敵の味方をするのか・あいつらは完全悪なのだから聞く耳を持つ必要はない・こちらは一切妥協するつもりはなくあいつらが全面降伏すべきだ』といった言論封殺や相互理解の拒絶によって台無しにしてしまうのである。

近代国家に忠誠を尽くす愛国心を国家権力や政治家(支配階層)、軍部が『教育・メディア・相互監視』を通して煽り立てた最大の理由は『対外戦争に国民を協力させるため(兵力・財産を自発的に国家のために供出させたり自己犠牲を厭わなくするため)』であったが、国民のひとりひとりの生命や人生、感情という『個人の尊厳(家族の安全)』を守るための自然発生的な愛国心というか倫理観のほうが現代では求められているのではないだろうか。

戦前日本の愛国心教育の歴史では、国家・国策・天皇のために潔く死ぬこと(自分の生命を惜しまないこと)を最大の美徳とした経緯があり、『愛国心』と『生命・個人の尊重』が両立し得ないという原理的な欠陥もあったわけだが、愛国心は『ただ自分の国が好きという感情』だけには留まらないのが常であり、『国のためにどこまで犠牲にできるのか(お前の国への忠誠心はどれほどのものなのか、口だけのものではないのか)』の踏み絵や言論の自主規制が課されやすいことが問題なのである。

愛国心の必要性が叫ばれる時には基本的に『外部との戦いの可能性・その活動で自国民に犠牲が出る危険性』のある政策を政府が遂行しようとしている時のように思える。安倍政権もまさにそういった可能性とリスクのある安全保障政策・解釈改憲に取り組もうとしていることは恐らく偶然の一致ではなく、安倍首相が理想としている美しい日本の国家像・国民意識の実現のためには『政治的な愛国心(政府の国策や外国の脅威の喧伝に自己犠牲を払ってでも従う忠誠心)』を持つ国民の教育・馴化がやはり必要になってくるのだろう。

確かに、先進国以外の国では安定統治の方略や低コストな治安対策、対外的な拡張政策(あるいは内戦・内紛)のために、忠誠心・自己犠牲とほぼ同義の愛国心が政策的に広められることはあるが、それは『個人の尊厳・自由・プライバシー』を保てるだけの国力や資源的・物量的なリソース、教育水準がないからという要因もある。

そういった対決姿勢ありきの愛国心(異民族・外国・敵対勢力のせいで自分たちは不遇・悲惨でありその悪しき敵対者を打ち倒したり撃退しなければならないとの思い)で自尊と腹を満たさなければならない環境条件が日本にも再び整おうとしているのだとしたら、悲しい歴史の反復の轍(政治的・教育的な国民の犠牲の頻出)を踏まないようにしたいものである。