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山口県周南市金峰(みたけ)で発生した『5人殺害放火事件』について。

山間にある人口数十人の小さな集落で起こった異常な連続殺人放火事件である。『閉鎖的な集落内部』の濃密な人間関係とそこからの疎外感・怨恨感情によって引き起こされる大量殺人事件(コミュニティ破壊型犯罪)は、明治時代の津山事件(岡山県)をはじめとして過去にも起こったことがあるが、『地域コミュニティ・近所づきあいの希薄化』が進む現代社会、特に都市部では珍しくなった型の犯罪ではある。

<山口5人殺害>「悪口言われる」不明の男、警察に相談

親や祖父母の世代から地域住民がずっと固定されているような田舎の集落では、数十年前までは自分の家と周囲の家との境界線は弱く、みんなが助け合うべき家族といった『村落(農村)共同体の名残』を残していただろう。お互いの家族の顔も名前もそれぞれ何(どんな仕事)をしているかも、結婚しているかも全て筒抜けのような関係があり、『集落内の相互評価(悪くいえば相互監視)・噂話』が住民たちの行動選択を無意識的に拘束しており、プライベート(私的領域)を保った都会的生活などはしたくてもできない環境である。

閉鎖的な小さな集落(顔・名前をそれぞれが小さな頃から知っている集落)では、『集落の協力的な一員』として承認されていなければ居場所がなくなりやすいが(陰口・噂話などで精神的に追い詰められやすいが)、『集落のルール・慣習・役割分担』に違背することでかつては村八分のような制裁を科されることがあった。

現在の村落ではさすがに昔の村八分のような制度的な制裁はないと思うが、数十人程度の住民しかいなければ、『集落の人間関係から外される・疎遠にされる(あるいは自分のほうから付き合いが悪くなり偏屈・排斥的になる)』というような事態は当然考えられる。

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“他者の評価・選別のまなざし”と“非難や嫌味ばかり言う相手”にどう対応するか:Self-Esteemの自己啓発3

他人に自分がどう思われているかに囚われ過ぎると、『自分が決めて楽しむ人生』を生きられず『他人が評価(規定)する人生』に埋没してしまうだろう。他人の意見や評価に真摯に耳を傾けることは大切なことだが、他人の言葉や態度をあたかも『自分が従うべき命令・指示』のように受け止めて、『自分のやりたいこと・考え方の自由度』の多くを投げ捨ててしまうことには慎重にありたい。

自分にとって本当に大切な相手あるいは自分のことを本当に思ってくれている相手であれば、その人の意見や注意、評価に最大限の敬意を払って内容をしっかりと聞くべきである。反対に、自分にとって本来どうでもいい相手、人生において重要な位置づけにあるわけでもない相手の、『自分を不愉快にさせるがための意見・批判・小言』などに真面目に付き合ってあれこれ思い悩む(相手から吹っかけてきたトラブルに巻き込まれて、自分のほうが相手の悪意を和らげようとして逆に気を遣ってしまう)のは時間と気力の無駄である。

大切な相手は、あなたの人生・時間・感情の大部分を恣意的に支配(操作)しようとする態度を取ることはなく人格・価値観に対しても相互的な尊重を期待することができる。悪意のある相手は、あなたの人生・時間・感情の大部分を恣意的に支配(操作)しようとする態度を取ることで、貴重な時間や精神力のリソースを奪っていく。

『他人を否定したり落胆させるための優越感ゲーム』に付き合うのはそれが好きな人以外にとっては有害無益だし、『他人の心理的問題』に取り組むカウンセリング的対応は、よほど自分にとって大事な相手でもない限りは(専門家として請け負っているのでもない限りは)あなたがやらなければならない仕事ではない。

意図的にわざと、相手を怒らせたり困らせたり落ち込ませたりすることばかり言っているような常に不愉快・不機嫌(意地悪)な人も稀にいるが、そういった人は自分自身でも解決が困難な心理的問題を抱えている事が多く、その苦しみや怒りの間接的な発散法としての優越感ゲーム(相手をやり込めるような会話)を求めているところがあり、付き合い続けるのは骨が折れる。

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“他人とのコミュニケーション”の面白さ・煩わしさ:共通点がなさそうな相手との雑談の苦手意識

職場で上司や同僚、取引先と『直接の業務以外の雑談(おしゃべり)』をする若者が減っているというが、関係性に合わせてやり取りをする『儀礼的なコミュニケーション機会』が社会から減ってきていることも関係しているだろう。

現代社会は『親密なコミュニケーションを取る範囲』を地域社会の顔見知りからご近所の隣人、近しい血縁者、同居の家族、親しい友人知人、付き合っている恋人などへと縮小するゲゼルシャフト化(利害共同体化)の傾向を示してきた。

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それは『煩わしいムラ社会・儀礼的な人付き合い・噂話が生み出す世間体』から逃れたいという欲望と経済・技術の進歩がシンクロした必然の結果でもある。

ウェブ社会の発達やソーシャルメディアの浸透は、『自分の好きな人とだけコミュニケーションしたい(自分の好みや相性で選んだ相手とだけつながっていたい)』という個人の欲望を技術的に充足させやすくした。『好きでも嫌いでもない相手とのコミュニケーション機会』は限定的となり、『不快で嫌いな相手』はアクセスそのものが禁止(表示そのものがブロック)されたりもする。

お互いの状況や考え、気持ちについて頻繁に会話をする『プライベートな人間関係の範囲』はかなり狭くなり、携帯電話の普及によって『話したい相手』と『話したくない相手』との主観的(好き嫌い)な選別もより技術的に簡単になった。

自分にとって感情的なメリットや関係維持の必要性がないと思える他人と、なぜ話さなければならないのか(なぜ話題をあれこれ考えてあげなければならないのか)、自分がまったく興味のない話題や同意できない旧世代の考え方などをなぜ聞かされなければならないのかという価値観を持つ人もおそらく増えていると思う。

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“マイルール(自分ルール)へのこだわり”と“他者・環境のコントロール願望”

自分だけにしか通用しない『マイルール(自分ルール)』へのこだわりが、『常同行動・強迫行為・パターン行動』のように病的なまでに過剰になると、アスペルガー障害・自閉症性障害などの『自閉症スペクトラム』に近づく。それは端的に『他者に対する無関心・自己中心の世界観』に行き着くことになり、他者とのコミュニケーション障害をもたらすことになる。

自閉症スペクトラム(自閉症的特性の連続体)は、『自己の内的世界に沈潜する度合い』の問題でもあり、自閉症と無関係な一般の人でも多少は『自分の内面に閉じこもる傾向(内向的な他者と距離を置いておきたい傾向)』を持っている。自閉症スペクトラムの度合いが強まるほどに、『他者を自己の障害(邪魔・刺激)と見なす認知』が強まり、『主観的なマイルール(こだわり行動)』に従った規則的なパターン行動を繰り返すことで安心感や制御感を感じやすくなる。

他人の気持ちを察することができず、共感・配慮・会話を全くしない(しようとしてもできない)というのであれば、コミュニケーション上の弊害があまりに大きくなるが、『マイルールのこだわり』と『出会いのチャンスの喪失』のバーターは、本人にとってはわざとマイルールを押し通すことで『自分と合わない相手(自分に合わせてくれない相手)』を無意識的に選別している可能性もあるだろう。

そういった選別はわがままといえばわがままであるが、自分だけのルールや常識・信念に必要以上にこだわって譲らない人というのは、基本的にわがままなのであり『他者からの干渉・影響』を最小限に抑えることで『関係・状況のコントロール感』を維持したいという人だと言うことができる。

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自我の強さと自他の差異が生み出す“優越感・劣等感・自己顕示”をどう考えるか?:『超訳 ブッダの言葉』からの思索

仏陀(釈迦)が起こした仏教は、煩悩・欲望の源泉である『自我』を滅却しようとする特異な宗教であり、自我の現れとしての『自己顕示・慢心・自慢』を戒めている。

砕けたポップな言葉で経典の言葉を今風に翻訳した『超訳 ブッダの言葉』を電子ブックで買ったので、その言葉を引きながらブッダの思想や仏教の世界観を考えてみます。

ちょっと言葉が砕けすぎているというか、原文ままの翻訳ではない意訳なので、仏教の学問的な勉強(哲学的・権威的な固い文言を読みたい目的)には向いてないですが、気楽に人生哲学のようにして読み流す一般人向けの本としては良いと思います。『超訳 ニーチェの言葉』の姉妹本ですが、こちらも岩波文庫のように哲学的な重厚感、解釈の奥行きを感じさせる文章(読む人を選ぶ文章)ではなく、現代風のざっくばらんな話し言葉を意識して書かれた文章ですね。

諸法無我とは『自分』と『他人』との境界線が消えることであり、自我の実在性(確固とした他と区別される自分の意識)がいずれは死滅する虚妄・幻影だということを達観することなのだが、自分の価値を顕示しようとする試みは自他の心を惑わせ、いずれは挫折する(生命が燃え尽きる)宿命の下にある。

029 『誰々の』を忘れるハピネス

『この考え(アイディア)は僕のオリジナルさ』
『これはあの人の発案だ。負けたなぁ』
『これはあいつの意見だ。けなしてやろう』
これら『誰々の』という狭い見方をすると、君の心は、我他彼此(がたぴし)と苦しくなる。

『自分の』『他人の』。
このふたつを君が忘れ去ったなら、仮に何も持っていなくても、幸せな心でいられるだろう。

経集951

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夫婦間の『会話の短さ・欠如』は珍しくないかもしれないが、

意図的かつ長期間の『無視・無反応』は実質的な関係の破綻、相手の人間性の否定のようなものだろう。

夫が妻を「23年間無視」 長期間の会話ゼロは「精神的DV」なのか?
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130520-00000392-bengocom-life

口を開けば喧嘩になるだけなので話さないようにしようなど、双方が同意の上であれば、お互いが家でできるだけ顔を合わせないようにしてそれぞれで生活をする『家庭内別居・家庭内離婚』という形態もあり得る。

しかし、どちらかがそういった冷戦状態に精神的に耐えられないのであれば『別居・離婚』に至ることになるだろうし、一言も話したくないとか相手が話すこと全てにイライラするとか、顔も見たくないとかいうレベルになると、通常は共同生活は著しく困難となり別れるだろう。

生活を共有していない恋人時代には、会話が少ない(弾まない)とか全くないとかいうことは、よほど無口(寡黙)な人でないと余り考えられないが、付き合いが長期化したり生活時間を共有しはじめると、『共通の話題がなくなる人・相手の話すことへの興味がなくなる人・仕事や家事育児が忙しくて雑談する気持ちの余裕がなくなる人』もポツポツと出始める。

相手のことを知りすぎて話すことがなくなるという場合もあるが、『相手の話しかけてくる内容や質問に意識を向けて答えるかどうか』ということが重要であり、それと合わせて『相手がゆっくり会話できるような余裕・時間がある状態にあるかどうか』の見極めも大切である。

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