映画『終戦のエンペラー』の感想

総合評価 79点/100点

凄惨な沖縄戦、徹底的な本土空爆、壊滅的な広島・長崎への原爆投下を経て、既に制海権・制空権のすべてを失っていた大日本帝国は、8月14日に連合国軍が提示していた『ポツダム宣言』を受諾して無条件降伏した。神洲日本の不敗神話と陛下の御意志を掲げ、狂気的な『一億玉砕・国体護持』を主張していた帝国陸軍も、8月9日の『御前会議』において天皇自らが戦争終結を検討すべしとの意向を述べたことで『徹底抗戦の根拠たる天皇の後ろ盾』を失って降伏に同意せざるを得なくなった。

『終戦のエンペラー』は1945年8月30日に、GHQ(連合国軍最高司令部)の最高司令官ダグラス・マッカーサー陸軍元帥(トミー・リー・ジョーンズ)が神奈川県の厚木基地に上陸する場面から始まる。アメリカが戦争で勝ったとはいえ、数百名の未だ武装した日本兵が整列する飛行場を、わずか数十名の部隊で歩かなければならない米兵たちは緊張している。

部下たちの緊張と不安を押しのけるように、マッカーサーは『まずはアメリカ兵の男ぶりを日本人に見せつけてやれ』と煙管(コーンパイプ)を余裕たっぷりな面持ちでくわえてタラップを歩き、寛容な君主さながらの風格を漂わせて飛行場を歩く。そこには日本の最高権威であり日本人の精神的な支柱であった天皇よりも、戦争に勝利した自分たち(アメリカ全権代理)のほうが上位の存在なのだと徹底して日本人に印象づけなければ、『統治者としての威厳・面目』を保ち得ない(再び天皇を中心として反米の求心力が生まれる)というマッカーサーの気負いも覗くようである。

自分が近づく度にくるりと後ろを向く日本兵を見て、『この奇妙な風習は何なのか?』と問うと、知日派とされるボナー・フェラーズ准将(マシュー・フォックス)が『日本では最高の貴人の姿を直接見てはならないというマナーがあります。最高権力者である天皇に対しても同じように直接に顔を見ずに接するという対応がなされているのです』と答える。アメリカ人と大きく異なる日本人の礼儀・慣習の一端に触れて苦笑するマッカーサー元帥だったが、彼が迅速かつ効果的な日本占領政策のために講じた手段は、『戦争犯罪人と認定した軍人・政治家・財界人の一斉検挙+徹底的な事情聴取』だった。

アメリカ(連合国)が極東国際軍事裁判で『戦争犯罪人(戦犯)』としたのは、開戦時及び戦時中において戦争を指導・命令したり扇動(宣伝)・支援したりした政官財の中心的な人物(首相や閣僚ポストの経験者・戦時の有力な官僚や軍人・戦争を経済支援した財閥の重鎮)、あるいは現地の戦場で虐殺・略奪・暴行などの非人道的な行動を命令したとされる指揮官などであったが、『日本の戦争責任』を特定の誰かや特定集団に帰結させることは現実的にほとんど不可能であった。

アメリカ政府は当初『天皇の戦争犯罪・戦争責任の有無の検証』を至上命題としてマッカーサー元帥にその証拠を固めるように指示を出していた。これは『日本の戦争責任』を天皇一人に収斂させることができれば、その他の日本人を免罪して戦後占領統治をスムーズに行えるという『歴史的権威者がないアメリカの安直な日本観』が反映された考え方でもあった。

日本の社会・文化・歴史に兼ねてから興味を持っていたフェラーズ准将が、日本人の価値観や戦争の原因の調査を行いながら、『天皇責任論の曖昧さと危険性(未だ天皇に忠誠を誓う勢力のゲリラ活動などによる占領統治混乱の恐れ)』を指摘するレポートを書くという流れになっている。マッカーサー元帥は米兵の部下の中では日本文化・日本人の価値観に最も理解のあったフェラーズ准将に、『日本の開戦の原因と戦争責任の所在を明らかにする極秘調査を行え』という命令を下すが、マッカーサーは開戦時の首相である東條英機の背後にいる昭和天皇を暗黙裏にターゲットにしており、天皇の戦争責任を証明するための証拠・証言を収集するようにという含みを持たせていた。

映画では、マッカーサーは次期アメリカ大統領を目指す徹底した俗物というキャラ設定が為されている。『自分がアメリカ国民にどのように見られているか、どう評価されているかというポーズ(外観的・報道的な見栄え)』をいつも気にしており、GHQ本部でも頻繁に『力強くて交渉力のある寛容・聡明なリーダーに見えそうな写真』を何枚も撮影してフェラーズを辟易させている。

作中のマッカーサー元帥は、最高司令官として日本に上陸したばかりの頃は、『日本憎しのアメリカ国民の民意・願望』を実現するために、天皇を最大の戦犯として軍事法廷に立たせ戦争責任を追及して処刑に追い込んだほうが、自分の将来の票(支持)につながると読みかけていた節もある。だが、フェラーズの戦争責任に関する聞き込み調査の報告と9月27日の天皇との直接の会見で受けた印象によって、マッカーサーは天皇の戦争責任追及の方向性を転換して、米国政府の当初の意向(天皇断罪)に反するフェラーズの報告書(天皇の戦争責任を追及しないほうが結果として米国の占領統治の安定につながる)を了承したという。

マッカーサーが来日当初に『天皇の戦争責任の追及・処罰』についてどう考えていたかは諸説あり、初めから軍政による治安維持の負担やゲリラ戦の激化を懸念して、天皇の責任を問わないつもりでいたという見方も有力である。

10日間の極秘調査を行ったフェラーズは、東條英機前首相(火野正平)、近衛文麿元首相(中村雅俊)、木戸幸一前内相(伊武雅刀)、関屋貞三郎侍従長(夏八木勲)などに事情聴取をするのだが、『天皇の戦争責任・戦争遂行の命令権』についてはそれぞれの人物はあるともないともはっきりした返事を返さずに曖昧な態度を取る。

近衛文麿は教養人の穏やかな風貌で『帝国主義政策としての戦争をしたという点では連合国(欧米諸国)も大日本帝国も同じであり、それを犯罪だとするなら連合国も同罪ではないでしょうか。日本はアジアの国々と直接に戦争をしたのではなく、それらの国を植民地としていた宗主国のイギリス・フランス・オランダ・アメリカなどと戦ったのです』との持論を展開し、『私は歴史の講義を聴きにきたのではなく、戦争に敗れた(結果として多大な被害を生み出した)あなた方の戦争責任を調査する立場にあるのです』と言い返すフェラーズを苛立たせる。

木戸幸一は『陛下には国政を左右できるような直接の権限はなく、天皇主権は憲法上の形式的なものに過ぎない慣習が続いていたが、最後の御前会議において陛下は自ら終戦の方針を絞り出すようなお声で言葉に出された』として天皇の助命嘆願をする。

更に木戸は、天皇のポツダム宣言受諾と玉音放送の実施を知った一部の陸軍将校グループが、玉音放送が録音されたレコードの奪還(戦争継続)のため、8月15日未明に宮内省を襲撃する『宮城事件』を起こしていた極秘の事実を語る。宮城事件を見ても明らかなように、『天皇の命令権』は当時の軍部に対して絶対的なものなどではなく、天皇でさえも戦争・軍部に強く反対すれば弑逆されかねない危うい立場(天皇でも戦争をすぐにやめさせることができない情勢)であったことをほのめかして、天皇の戦争責任を回避しようとした。

フェラーズ准将と米国留学していた日本人女性の島田あや(初音映莉子)との恋愛も映画の重要な伏線になっているが、『個人としてのアメリカ人』と『個人としての日本人』では分かり合ったり愛し合ったりもできるのに、『国家・民族としての戦争』になると『人間としての当たり前のコミュニケーション・倫理観』が政治的・思想的に麻痺させられ圧殺されてしまう恐ろしさを描いている。

GHQに通訳兼運転手として雇われている高橋(羽田昌義)とフェラーズ准将との間に芽生えるお互いの心情を思い合う友情(共に戦争で恋人や妻を失ったという共通体験への共感)も、島田あやとフェラーズの恋愛関係とパラレルな構造を持つものであり、『国家・民族の単位で物事を考えることの危うさ(個人の倫理・常識の圧殺)』を象徴している。

『戦争賛美・日本民族礼賛・鬼畜米英(白人敵視)の国民教育』を受けた少年集団が、あやと歩いているフェラーズにいきなり石を投げつけて嘲笑する場面なども印象的であり、『国家・全体レベルの価値観の形成(属性による差別の肯定)』が『個人レベルの倫理・理性の麻痺(人間的な感受性の喪失)』を招くという現在進行形の世界各地の問題にも接続している。

クライマックスは、マッカーサー元帥と昭和天皇の駐日アメリカ大使館公邸での会見であるが、『自分にすべての戦争責任がありどんな処分も受け容れる』と認めて『国民の生命と生活の保護』を願い出た昭和天皇の人柄にマッカーサーが感銘を受けたという従来の『御聖断の効果・人格者説』を踏襲したストーリーになっている。

御真影以外では天皇の実際の姿や声を見たり聞いたりできなかった当時の日本人にとって、『天皇とマッカーサーのツーショット写真(しかもマッカーサーのほうが砕けた略装で格上にも見える写真)』はかなりのショックだったらしいが、現人神として教育されていた天皇(国体の本質)の共同幻想は、『玉音放送・人間宣言・マッカーサーとの写真』によってより現実的かつ等身大なものに改変されたと見ることもできるだろう。