日本のいじめはなぜ『仲間外れ・無視』が多いのか?

日本では『嫌いな相手と関わらない(口を聞かない)のは個人の自由でいじめではない・意地の張り合いで無視する』の価値観は珍しくない。意図せずして閉鎖集団ではいじめで追い込まれる人も出る。

日本のいじめ、目立つ「仲間外れ」「無視」 海外と比較

水利を分有して共同作業を行う農村共同体では『村八分の仲間はずれ』は、最も厳しい制裁の一つだったが、学校や会社、親族といったものも『同調圧力の働く擬似的な村社会』のようになりやすいのかもしれない。現代はそこに『嫌われる人や不快な印象を与える人が悪い』の免罪が加わり、無視はいじめではないの認識となる。

学校のクラスのような『固定メンバーの閉鎖集団』でなければ、『嫌いな相手と話さない・無視する』はいじめと見なされないが、『一定の情報交換・会話や雑談』がないと学業・授業に支障がでたり、クラスの一員としていづらくなる状況では『嫌いだからその人がいないと見なす(話しかけても無視)』は陰湿ないじめとなる。

固定メンバーのコミュニケーションがあるべき(なければ大きな障害や苦悩が生じる)集団関係の中における個人の排除は『いじめ』なのだが、開放的な集団・場面や個人対個人の関係性においては『相手とどこまで関わるか・どのくらい話すか(親しく相手するか)』は各人の自由で好き嫌いの差で待遇は当然変わってくる。

学校でのいじめ問題を離れてマクロな対人関係・集団力学の構造として見ると、『受容・親和・承認・評価』と『拒絶・疎遠・排除・否定』という二元論的な対人評価の軸は、身も蓋もない形で、個人の集団適応や対人魅力、人と楽しく過ごせるかを規定する。無視・仲間はずれというのは、大人社会でも主観的な被害感としてはあり得るものであり、大勢の人が一つの場所に集まれば必ずといっていいほど人間関係の悩み・問題は生まれやすい。

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